「なんでもできる」=「なんにもできない」
今私は、今まで自分がやると思ってなかったような大がかりな企画のために奔走中。
今は2015年5月。
ほんの3ヶ月くらい前には、そんな話に関わることになるのは、あってもこれから数年先だと思ってた。
けれども、ご縁の賜というか何というか…
もはや「やらない」選択肢はなく、逃げ場もない状況にはまり込み、かなり無謀な企画でも、どうにかして実現の方向に持ち込もうと、無い知恵を絞っている。
なぜ、そのようなことになったか…という話をすると…。
「才能があっていいね」
と、人は言う。
けども、それは違う。
結局は「振り落とされないよう、かじりつく」だけ
才能にあふれていても、だから実行するとは限らない。
(実際、そういうケースはたくさん見た。むしろ、才能にあふれてる人の方がやらないままになるって場合の方が多いようにすら感じる)
結局は、やるか、やらないか…の二択しかない。
そして、やる選択をしたからには、かじりつく。
必要なのは「根性」だと、思う。
その途中で、今まで大事だと思ってたものや、自己像を、捨てる場合もある。
私の捨てるものは「たいていのことはどうにか合わせられる」という枠
どういうものができる?と聞かれて、今まではよく「どうとでも合わせられます」って、答えてきた。
紙のサイズしかり、画材しかり。
まあ…私にキラキラが飛びまくったプリティメルヘンワールドを要求してくるような奇特な人もいないので、そういった「守備範囲外」のことを言われた時は当然、「無理」って言うけれども。
そうじゃない時は、「どうとでも」って言うのが常だった。
けど、それって、本当にどんな要求にでも応えられる…という意味ではない。
守備範囲は、自分が認識していたよりも、ずっと、狭い。
つまり「どうとでもできる」は、間違いだ。
その答え方は、都合のよい逃げ口上でしかない。
「私は、こういう風にしたい」を、はっきり意識して動くこと。
それが、自分を安売りしないためにも、自分のよいところをはっきり出すためにも、必要なことだ。
なので、「どうとでも合わせます」という姿勢に逃げ込むことは、捨てるのだ。
「なんでもできる」は、「なんにもできない」と、同じ事。