教会の尖塔と福音の書店にて
4月の会場に決まったギャラリーの近くには、ゴシック様式バリバリの大きなキリスト教教会があります。
私は、昔、なんだかその教会の二つの尖塔が作るシルエットが、怖かったのですね。
教会がコワイわけではないし、別の似たようなスタイルの建物も、怖くなかったんだけど。
なぜか、その教会は、怖くてね。
今はもう、怖くないのですが、目の前まで実際に行ったことなかったので、ついでに向かい側を歩いてみました。
怖くはなかったけど、入りたいとも思わなかったなぁ。
天使しか描いてなかった頃なら、どうだったかなぁ…と思ってみたけど…よく考えたら、まだその頃は怖かったの思い出しました。
前を素通りしたところで、女子修道会経営の本屋さんがありまして。
路面にガラスの向こうに展示してあるガラスの天使やら、イエスを描いたカードやら見てたら、何だか中に入りたくなりました。
店内には、キリスト教の本がいっぱい。
大人向け、子ども向け。
何種類もの、聖書。
絵本。
詩集や、ギフトカード類。
聖人たちを描いた絵。
壁掛け。
手作りロザリオやら、たくさんのメダイ。
こうした信仰を抱く方々に、私のミカエルの絵って、どう見えるのだろう。
カウンターにいらっしゃるシスターに見てもらいたい気分になったけど、さすがに遠慮しました。
で、焼き絵の友のキャンドルを二本購入。
ミカエルの時に、使います。
私は、現代の「教会という組織を維持」するための、システムとしての宗教ってカタチには、あまり良い感覚を持ってません。
けれども、こんな、人個人に立ち返った時の信仰の対象として在る姿の、真ん中に立つと、綿々と続いて来た人の思いがそのまま歴史となってきた重みを、皮膚感覚で感じます。
なんか…ちょっと、複雑。
ある聖人をとりまく環境に関わった体験記憶の妄想を持ってるから、なんかそういう気分になるんだろかね。
妙に物悲しいのだねぇ。
(ちなみに、私の中のそういう妄想は、聖人当人だとか、それに非常に近い人だとか、そんなのは一切なく、名もなく、当時の一庶民にさえ記憶されないような存在なのです。よく聞く過去生体験話って、有名人物当人だったり、配偶者やら家族や、そうでなくても近しい人みたいなのが多いようだけどねぇ)
教会の尖塔って、キリスト教の姿を、本当によく象徴しているなぁと思う。
先端が一点に集中していて、どこからでも、そこにただ、集中している。
裾を拡げて行っても、ただただ、集中したカタチのまま。
鋭く聳えて、他の世界を撥ねつける。
日本の神々は拡散してて、尖端を持たない。
空気のように、溶けこんで、どこにでも満遍なく在るがゆえに、際立つ存在感は薄くて、捉えづらい。
対極的な姿だなぁと思います。
私は、自分は魂的過程が尖端から空へと移り変わってきた…と思う。
ま、それも妄想ですけどね。