イケメンや美しい顔を描く方が簡単なんです
ブサイクな顔を描くのは、難しいのです。
最も描きやすいのは、整った容貌です。
そこに、二重まぶただとか、長髪だとか、何らかの要素がプラスマイナスされていても、基本的に「整った顔」を描くのは、ラクなのです。
一コマだけ、どうにか、格好だけついた感じに醜い容貌を描くことは、可能かも知れない。
けれども、生命力を持たせた、生きた絵に仕上げることは、また別の問題です。
顔の容貌として整っていない顔は、難しい。
そのカタチが、生きているように描くことは、さらに難しい。
美男美女を描く方が、遙かに、遙かに、ラクなのです。
全部、イケメンになったり、全部、美女になったり。
そこには、私という描き手の、造形の未熟さというものも、あるのです。
スサノオ様などは、自分は全くイケメンなつもりはなく。
しかし、あの御方は、非常に愛嬌のある方なので、ブサイクではない(と思う)
その微妙なラインというのが、私が描くと、イケメンになってしまうのは、やっぱりそこは未熟なんだと思っています。
イケメンが描けることは、スゴイことでも何でもないです。
何かが足りない…と、感じることが、本当に、しょっちゅうあります。
その足りない部分というのは、それなりに自分ではわかっていて。
もちろん、今まだ全く気づいていないところってのも、あると思うのだけど。
おそらく、それは、私という描き手が、陰の力をエネルギーにしている側の人間だから…それなのに、まだ、見えてないところ、出せないでいるところが、たくさんたくさん、在るからだと思う。
技術どうこうの問題ではなく。
(技術も未熟だけど、そんなことは後からどうにでもなると思っている…ということです)
私は一度、描く道を捨てました。
年一回、友人間でのグループ展に細々出してはいたけれども、それも、本気でやってたわけじゃなく、そういう機会があるからちょっとだけ、足の指先だけ浸しておくか…っていう程度に、お茶を濁してただけです。
そのもっと前に、絵中心の表現(コミック)を選ぶか、文章表現(小説)を選ぶか…の時も、絵を捨ててます。
好きな場面だけ挿絵にして、他は文章で書く…というのが、一番ラクなスタイルでしたから。
その時も、同じようなことを考えたのを、思い出します。
整ったものを描くのはラクだ…でも、本当は、そんなものは、少ないのだ…って。
神様の世界も、同じです。
きらきらして光り輝くばかりの世界ではなく、その光の強さと同じだけの、暗闇があるのが、神の世界。
善とか悪とか、そんな問題ではなく…です。
神や天使や、高次の存在を、光る美しい非の打ち処がないもの…と捉えるのって、ラクです。
すごくわかりやすいし。
でも、それは違う。
私は、そういう面だけ見て、それだけ描いていたらいい…という立ち位置には、いません。
残念だけど。
こんな浅瀬のままで、留まらせてもらえるとも、思えないし。
明日で、2012年が終わります。
もうあと少しで30日も終わるので…あと25時間少々ですね。
なんだか、ものすごく…
背骨の…骨髄の奥から、背中に広がっていく感覚があります。
血管や神経経路が、皮膚の上に造影されてくるみたいな感じです。
少し前まで、「周囲には、本当に果敢な、苦難の道をあえて選び進んで往く魂を持った人達がたくさんいる」っていうことを、記事に書こうとしていました。
書いたけど、なんか、言いたいことと違うところをウロウロするだけだったので、一旦、消してしまった。
その後…
それは何のためなのか…そういうケースをなんだかたくさん、目にして。
その人達の進む道を見せていただいて。
その葛藤に、時には立ち会わせていただいて。
言葉を交わすこともあるし、ただ、黙ってその行く先を気に掛けるだけのこともある。
それが一体、自分にとって、どういうことなのか。
レイキなど、エネルギーの体感を明確にするための「ツール」を求めて来た、意味も。
なんか、見えて来た気がします。
即身仏の話。
ここには書けませんが、その即身仏の話に通じることを、それよりも前に別の方から手渡されたこと。
過去生のフィードバック。
薔薇魔法の「オープン・ウイング」を受けた時に、二対の翼を確認しました。
一つは、今の自分の翼。
もう一つは、過去生の翼。
今、背中に造影されてきているように感じる、血管や神経経路の絵図は、その設計図なのかも知れないな…と、ふと思いました。
逆かな。
翼が設計図で、自分の肉体としての血管や神経経路を形成しているのかも。
美しく神々しい輝く神様の姿だけ描いていられる役回りをもらえたら、ラクだったかな~。
でも、たぶん、それじゃあ私は、面白くなくなってただろうな~。
自分で選んでる役回りだからね。
まあ、そんな感じの年末です。
イケメン描くのは、ラクなんですよ、ええ。