明後日は、立春後の最初の新月だ。
そして、その日は、旧暦の1月1日。
旧正月である。
スピリチュアルなイベントが好きな方は、新月に願い事を書くと叶う...というのを、実践されていらっしゃるかも知れない。
今年のこの日、私は、自分の陶芸窯を開くためのイベントをスタートする。
それに先だって、この企画を皮切りにした焼き物作りで、何を伝えていきたいか、ということを書いておく。
凡庸な凡才だから見せられること
私には何一つ、自慢できるような経歴はない。
美術は確かに、高校が専門科だったから、基礎はやっていると言えるかも知れない。
ただし、超のつく劣等生だった。
高評価をもらったことなどないし、賞ももらったことはない。
芸術の世界は、一つの道で何十年...といった人でも「それで食べていくことが難しい」世界だ。
ましてや、私のように、ポッと出の無名人ならなおさらだ。
私は15年近いブランクがあり、一度はこの道を捨てた人間。
復帰してからも、まるで違った技法をあれこれと渡り歩き、まるで落ち着かず、あちこち食い散らかしているような人間。
ちょうど一年前、県や市から依頼を受けたり海外へ陶芸を教えに行くようなプロの方から、「陶芸の何を知ってるんだ」と言われた。
おっしゃる通り、何も知らない。
ほんの少し土を触って、ほんの少し窯の隅っこに入れて焼いてもらって、ほんの少し絵付けの技法をかじった素人にすぎない。
別のある人は、生家が陶芸家というご友人をさして「生まれた時から息をするように作っていた人にはかなわない」と、話してくれた。
たぶん私は、そう口にしたその方よりも、ヘタくそだと思う。
で?
それが、どうした?
そもそも私は、今のこの現状...
何十年もやってきているはずの、この道一本の人達ですら食べていけない
という現状が、おかしいのだと思っている。
今時、100円ショップで買う食器で、日々の暮らしは事足りる。
どうして、1客何千円、何万円もする食器をわざわざ買う必要があるのか。
ごもっともな話だ。
そして、そういう世の中が、面々と続いてきた日本の陶器産業を、死に体同然にしてしまった。
入るのに敷居が高いから、作り手も、そんなには増えない。
若手が参入してきても、ベテランがその活躍の芽を摘む。
自分たちのパイを守るために。
おかしいと思う。
経験は確かに貴重な資産だ。
積み重ねていって初めてわかることは、たくさんある。
勉強だって、限界はない。
で?
だから何?
私は絵描きで、絵の道でも、次から次へいろいろな画材を使ってきた。
陶器も、「素材の一つ、技法の一つ」として、捉えている。
陶器ありき...ではなく。
私という、「異界絵師 緋呂」が作る作品群の中の一角に陶芸がある。
極めた料理人が、卓を極めるために自ら器も作り、部屋の装飾も手がける...といったことは、歴史的にも例がある。
料理の演出のために、ふさわしい器を作る。
私は、それとも違う。
あくまでも、主体が自分。
何かを彩るためではない。
彩るため...というのなら。
私が彩りたいのは、
面白い生き方
に他ならない。
ものを作ることを楽しむ人達。
描くことを楽しむ人達。
でも、その楽しみは、自分のため以上のものになることは難しい。
今は。
ずっと作り続けてきた、一つのことを極めようと長く挑戦し続けてきた。
そんな人達ですら。
それで生きていくことは難しい。
そんな、現代。
私のように、大して才能もなく、必死に人生賭けてきたわけでもなく、あれもこれも欲張ってのらくらやってきたような人間。
凡庸で凡才。
しかも、すでに50才越えてからの参入だ。
私は、証明したい。
そんな人間でも、やり方を掴めば、生業として成立させることができるんだ
と。
生まれた時から土いじりしてきた...とか。
専門的に勉強し、何十年と培ってきた...とか。
高名な賞を何度もとった...とか。
すごい感性や技能に秀でている...とか。
潤沢な資金があり最高の環境が用意できる...とか。
何一つない。
そんな凡人でも、道を開くことができるのだ。
それを現実に見せたい。
もし私が少し凡庸を超えたものを持っているとしたら。
図々しさだと思う。
それだけで、ぽっと出の素人が、生活できるまでに高められるかどうか。
私は、そこにチャレンジしたいのだ。
そのチャレンジを通して、
その気になれば、なんでもできる
ということを、伝えたい。
いつからだって、遅くない
ということを、伝えたい。
今回の陶芸窯購入費用支援企画は、その第一歩。
2月16日、スタート。