「はじめてのおつかい」に見た「本当にほしいモノを封殺する」仕組みと、それを解除する呪文
相手が言いたいけれど言えない...そういう時。
気持ち的に言えないこともあれば、表現の術を知らないとか語彙力がないとかで言えないこともある。
そんな時。
聞いている方は、それを汲み取ろうとしているつもりで、まるっきり違う方へ誘導しようとしている。
実に多くの場合、そうだと思う。
それを如実に見た、今日の夜のテレビ番組。
子ども達が「おつかい」に行く。
店員にさまざま話しかけ、ヘルプを求める。
大人はほぼ確実に「何を言わんとしているか」ではなく「自分の想像からの、その子が言いたそうなんじゃないかということ」を口に出し、子ども達を誘導しようとする。
その子は自分が買うべきものを、ちゃんと把握していた。
ただ、それをどう聞いたら出してもらえるのかわからないだけ。
しかし大人は、なぜかそれを押しのけ、別の商品を押しつけようとする。
そんな場面が何度もあった。
同じ子どもと同じ大人...ではなくて、地域の違う別々の組で。
特に顕著だったのは、子ども達の「おばあちゃん」世代の店員の対応。
その子はちゃんと買うべきモノを伝えているのにもかかわらず、店員は、それは固いとか大きすぎるとか言って、別モノを押しつけた。
それを非難しているわけではない。
ただ、「これが、社会で日常的に起きていることだ」と、思ったのだ。
自分対自分で、それが起きることすらある。
本当はこうしたい。
本当はあれがほしい。
本当は.........
なのに、自分の「理性的側面」やら「社会的側面」やら...「大人ぶった側面」「いい人ぶった側面」達は、それを別の方向へ誘導していくのだ。
いや、それは身の丈に合わないよ。
いや、あれはまだ無理だよ。
いや、あっちは遠すぎて行けないよ。
そうやって、手近な、無難な、どうでもいいような、別のモノを押しつける。
「だって、その方がいい」という、実に意味不明な理由で。
違うんだ、今買うべきモノは、あの塊の大きなベーコンなんだ。
スライスされたハムじゃない。
多くの場合。
その声は声にならないまま、消えていく。
声を出しても汲み取られない。
ベーコンではなくハムを「よかれ」と押しつけてきた相手は、なぜベーコンでなくてはならないかなど関係ない。
ただ、自分の想像の範囲から考えると、それが最適に感じる...というだけのことであって。
それを押しつけた意識もなければ、間違っているとも思わない。
そして、その「想像の範囲」とやらは、たいていの場合極めて限定的で、主観的で、他人にはなんの役にも立たない。
せめて、自分の声だけは、辛抱強く拾い出していきたい。
私は別に理性的でなくても、社会的でなくても、大人でなくても、いい人でなくても全然OK。
お行儀のよいスライスハムで我慢するいわれはない。
自分の小さな声を封殺してしまう仕組みは、気がついた時に解除していこう。
解除の呪文は、これだ。
迷ったら困難な方を選べ
迷ったらカッコイイ方を選べ
迷ったら面白い方を選べ
迷ったら損する方を選べ