緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

尋ねよ、尋ねよ、尋ねよ...だからこの文字。音が名前と同じなのは偶然か?

インスタントになんでもすぐに答えを出したがり、すぐに見える成果をほしがる。

そういうものがないと、あっけなくダメとか向いてないと決めつけたり、楽しくないからやめちゃえ、となったりする。

無駄にかじりつく必要はないと思うけれど。

そんな姿勢じゃ、何一つ成せないよ、とは今でも思っている。

 

 

私の最大の道標となる人は、絶対に、答えを教えない。

答えどころか、ほとんどヒントも出さない。

 

おそらく私が探し当てて辿り着くべき「チェックポイント」となるものを、ぽん、と投げてくる。

テーマであったり、課題であったり、カタチはその時によって全く違う。

 

大きな紙面にチェックポイントのマークが小さく入った白地図をぽいと渡されるようなものだ。

 

その座標も書いてなければ、現在地がどこなのかすらも、書かれていない。

計測し、調べるところからスタートしなきゃならないのだ。

 

そんな問答を、今まで数年間。

7年?8年かな?

やってきた。

まだまだ、続く。

 

会う機会は少なく一回の持ち時間も少ない。

その時間に、ヒントをできるだけ多く引き出さなきゃならない。

そのためには、自分の側が用意する材料がたくさんある。

どれが当たるかわからない。

運良く、用意してきたものがヒントに近ければラッキー。

それを糸口に、次のヒントを探しに出ることができる。

全部遠ければ?

下手すると、その課題の延長上にはない、まるで新しい白地図が渡されてしまうこともある。

そして、そんな時でも、前の地図が無効になるわけではない。

課題は活きている。

そう、増えるだけだ。

クリアしない限り、増え続ける。

クリアしたら、その地図の先が出てくることもあり、結局、増える。

 

時には、以前に渡された地図のことなどケロッと忘れられていることすらある。

しかし、地図は活きている。

ある時、唐突に、バラバラに出てきてバラバラに探っていたそれらの地図が「一続きの巨大な設計図」になっていたことがわかる時が来るのだ。

 

もちろん、それがわかったからって、ゴールとは限らない。

その地図に加えるべき拡大図を作ることが要求されたりと、油断ならない。

 

私の最高にして最優先の道標は、そんな人だ。

 

 

インスタントに手軽に成果を求めるこのご時世。

これに耐えられる人は、多くないと思う。

実際、耐えられなくて離脱していった人を多く知っている。

彼らに共通するのは、どこかの時点で「疑問」に絡め取られる、ということだ。

 

「こんなことを続けてて、一体何になるんだろう」

「こんなのが本当に、自分のためになるんだろうか」

「単に、適当なことを言って煙に巻かれているだけなんじゃないのか」

 

そんな、疑問たち。

 

 

彼らは、尋ねるべき問いを、間違えている。

私はそう思っている。

 

尋ねるべき問いを発する相手も、間違えている。

 

道標は、道標なのだ。

道標とは、そこに在ることそのものによって、後続へのヒントを示す。

何が書かれているかは、尋ねる者が自ら読む必要があるのだ。

直接問いを発しても、満足な答えは得られない。

何を読み取ったかは、自分にしか、わからない。

 

問い続けるしかない、自分に。

 

この白い地図に打たれたこのマーク。

これは、一体何を意味するのか。

そこから始めなきゃならない。

 

そこへ行くのか。

そこから始まるのか。

そこに何かがあるのか。

そこに近づいてはいけないということなのか。

その相対的な位置は、どこなのか。

それ以前に、この地図の天地はどっち向き?

 

その謎解きが進んでいくと。

次第に、出されるヒントが、具体的になる。

具体的、というよりは、絞り込まれてくるというべきか。

 

最近私はようやく、その段階まで来た気がする。

 

 

「どうやって、ここまで辿り着いたの?何が一番大変だった?」

 

そんな問いをもらったけど。

私の口から反射的に出た言葉は

 

「いえ、別に大して苦労はしてないです。なんか、勝手にこうなりました」

 

だった。

そして、それは、事実だ。

 

でも。

真実ではなくて。

その事実に至るまでに、水面下での迷走の数々や痛い目見た数々は、確かにあって。

ただ、私には、「苦」と感じにくかったし意識にも上ってこない、というだけ。

 

 

私はなぜか、答えのない問いを繰り返す工程に、子どもの頃から馴染んでいる。

顕著になったのは中学生頃。

 

だから、私の中には、基本的な観念として

「答えなどすぐに手にはいるものではない」

というものが、染みついている。

むしろ、すぐに手に入る答えに興味がわかない、ていうくらい。

 

もちろん、そのよくない習慣として「わからなくても気にならない」というものがある。

空白を空白のままにしておくことが平気。

後に回すことも、平気。

自然に発酵するまで、いつまででも放っておける。

 

その副次的なものとして「飽き性」になった。

 

 

 

何をこんなこと書いているか、というと。

「この道のりに耐えられる人は本当に少ない」

と、ものすごく、しみじみと、言われたからだ。

 

自分がどれくらいの難易度をクリアしているのか、まるで自覚がない、と。

 

そして、その自覚のなさ加減は、自分が作ってきた道筋にあるものへの軽視につながっている、という。

それが、阻むし削ぐものでもある…。

 

そこで。

今までとは少し位置をずらした「尋ねなさい」という地図を渡された。

 

自分に尋ねる、という解き方は同じだけど。

尋ねかたは、少し違う。

これは難題だ。

 

 

 

そんな無茶な道標とはまた別の。

こちらは、なんというか…鏡?

ガラスではない素材の鏡、というか…

本を映している鏡?みたいな?

チェックポイントの他に、白地図の天地や現在地のマークがある具体さをちゃんと示してもらえているところから読み始める学びもあり。

途上で作っている、この札たち。

なぜ、この文字を使うってすぐに思ったのか。

なんか、わかった気がした。

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この文字は、私の道、そのものだ。

 

読みも、名前と同じ「ヒロ」だけど。

果たして、それは「たまたま」か?

 

 


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