豊かな暮らしに必須なのは、特に時間と精神の余力だなあ、と
時間も精神力も体力も、大事なのは「ゆとり」だと思う。
揶揄される「ゆとり教育」とは違う。
遊びがあるかないか、という話。
自動車のハンドルやブレーキなどに持たせてある「幅」のことだ。
余力、とも言う。
めいっぱい使い切って日々を過ごす、ということがよいとされることもある。
けれど、それは、「悔いを残さない」という意味であって。
実際に、時間や気持ちやエネルギーをMAX毎日使い尽くすことを奨励してるわけではない。
余力がなくなると、どうなるのか。
何も、新しいことができなくなる。
新しいことにチャレンジする、というのは、エネルギーが必要。
そこに回す分は、日々の行動で使い切っちゃったら、なくなってしまう。
補給を上回る消費が続くと、どうなるか。
考えるまでもない。
現代は流れがすごく速くなっていて。
しかも、細分化されていて。
全体的に、余力が乏しくなっているように思う。
なんでも、すぐに結果を見たがり。
しかも、ほんのちょっとのことではなく、大きな動きが見えないと「無い」ことにされてしまったり。
質問もインスタントなら、答えもインスタント。
上っ面だけなぞったようなカタチだけの答えであっても、見えるものに飛びついてしまう。
そして、それを手にしてしまえば。
もう、もとの問いを問い直すようなことも、しない。
この年になると、そういう動き方がキツくなってくる。
縁側でお茶しながら、ぼーっと空を眺める...そんな感じの時間を意識的に確保しないと。
いろんなところの余力を使いすぎてしまって、発想やひらめきが、狭くなっていく。
一見、無意味に思えるような「答えのない、問いのための問い」というものが。
どれほどに、豊かな精神を生み出すのか。
そのためには、時間の余力が必要で、それがどれくらい貴重なのか。
そんなことを、思う日々。
格子のマス目から見ても空はキレイだけど。
マス目のないところで全体を見る方が、ずっと美しい。