緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

【伝言】祭祀と芸術、人の本能とは 「存在する」ということそのものへの賛歌

原初より、人は神を求める行動の中で様々な発明を成してきた。

言語も、文字も、芸術も、そうしたものの一つ。

あらゆる創造物は人が神へ捧げるために生み出された。

それゆえに、そられは人自身をも慰め、高めることができる力を持つ。

 

人の捧げ物とは、人が神と適正なる取引を行う場合の対価となり得る。

 

忘れてはならないのは、もともと人というのは、神やそれに並ぶ存在、それ以上の存在により、存在を許されているということだ。

生かされているのだ。

そして、人が存在しなければ、神も神として存在することができぬ。

この点で、神も人も、基本的には同等なのである。

 

ただし、神と人とではその背負う役割の大きさが違う。

また、時間や空間の概念も全く異なる。

 

人の時間と神の時間は、全く軸が異なる。

人が認識できる時間の単位と、神のそれとは、まるで次元が異なる。

 

今起きることは、何世代も以前の先祖が捧げた願いの成就である、ということも珍しいことではない。

あるいは、何度も生死を繰り返した後のその該当する魂の器に対し、成就が与えられる場合もある。

しかし、その仕組みを理解する者は少なく、また、そうした者の教えることを全うに受け入れる者は更に少ない。

ゆえに、神が常に成就を与えていることを、人はなかなか理解せぬのだ。

 

 

ここで「神」と呼んでいる存在については、そもそもの適正な言語が人には与えられておらぬ。

人は苦心して、それを表現する術を編み出してきたが、どれも、近いようで遠く、遠いようで近いというにとどまる。

 

なぜそのような仕組みになっているかといえば。

それが、多様性の発祥となるからである。

 

一つの表現を与えれば、他の表現が生まれる機会はそれだけ失われる。

 

一つの表現に観念が収束することは、発展性を阻害する。

 

人は今も、無限に、新たなる表現を生み出し続けている。

解けぬ謎の存在は、その原動力である。

 

人とは、疑問を持つことにより、種すら超える驚異の変化を遂げる。

そのように、成り立っているのが、人である。

 

 

しかし。

神への適正なる捧げものを携える人は、少なくなっている。

それが意味するのは、神の力の衰えであり。

同時に、人の繁栄の陰りでもある。

 

祭祀を司る者が少なくなったという意味ではない。

祭祀とは、神のためではなく、人のために人が考え出した繁栄のための表現の一つである。

それを執り行うことにより、人は神を想起し、願いを馳せる習慣を取り戻す。

人の中に求心力を与える。

祭祀という行為そのものではなく、それによって人の中に興る想いが神への最高の捧げ物となる。

 

ゆえに。

祭祀によって興る人の神につながる情動と同等の想いを沸き立たせ得る手段のもう一つである、芸術が大切になるのだ。

 

芸術とは、「存在する」ということそのものへの賛歌である。

言語を仲介せずに想いの想起を高めることができるのは、芸術の優れた美点である。

人が体を使って表現する芸術、道具を使って表現する芸術。

いずれも、祭祀と同等の至高の供物となる。

祭祀の中に芸術が含まれるのは、相乗効果が得られることを人が本能的に知っているからである。

 

その「本能」とは。

人も神の一部である、という、根源的な構造のことを指す。

 

 

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