価値観の変化と手のひら返し
手のひらを返す、という表現がある。
突然、態度を一変させることを指す。
掌を返す
お金や地位がそこそこあった時は笑顔で親しげに近寄ってきてた人たち。
それらの切れ目が縁の切れ目で、失ったらコロッと、知らん顔する。
いい時も悪い時も、態度を変えずに接してくれる人は信じられるね。
自分も、気をつけよう。
まあ、そういう話に、なるよね。
でも、ふと思ったのだ。
価値観は日々、移り変わる。
私のそれは、あきれるほどに急展開する時もある。
さすがに、真逆になるってことは、そうそうはないけれど、皆無でもない。
当然、その前後では、人への接し方や見方にも違いが出てくるわけで。
場合によっては、まさしく私が、相手の人から「手のひら返しやがって」と思われている可能性もある。
でも、自分にはそういう意識はなくて。
どうしてかはともかく、昨日までの自分と今の自分が、まるっきり感じ方が変わってしまって、もう戻すことはできないのだ、ということだけが厳然としてあって。
変わる前によいと思っていたことも、後の今では取るに足りなくて。
そんな風に反転してしまったことに、自分自身が一番、驚いて戸惑っていたりもするわけだ。
私が「あいつは手のひらを返すようなヤツだ」と思ってしまった経緯があった、あの人。
もしかしたら、あの人だって、その「前後」を経験している人なのかも知れないじゃないか。
そんな風に考えはじめたら、手のひらを返されたのどうのと、根に持っているのもバカバカしくなってきてしまった。
人は、変わるものなのだ。
ただそれだけのことだ。
相手も自分も、ほぼ同時期に同じくらいの変化を遂げたとしたら。
その結果、お互いの乖離はどれほどになるものだろうか。
変わったのは相手ではなく、自分かも知れず。
ただ、それはもう想像するしかない以上は、正解が何かなど、お互いわかるはずもない。
例題に書いたお金や地位の切れ目、という話で考えてみるならば。
向こうはわかりやすく、それが付き合うポイントであるということは「変わりなく」、だからこそ失った自分にはもう知らん顔できる。
失った、という「変わった自分」の存在があるのは、事実。
そういう話でもあるわけで。
相手が自分ではなく自分の背景に興味を持っていただけの人だった、と気づいていなかったのが、自分のミス。
そんな話でも、あるわけで。
はっきりしているのは、両者の間にあった共同幻想は壊れて、もう二度と戻らない、ということだけで。
どちらが悪か、どちらが間違いか、そんな問題でもない。
のかも知れない。
もちろん、はっきりと悪意があれば、それは別の問題だし。
黙って耐えろなんて、言う気は毛頭ないけども。
そうでなく、自然発生的に起きてしまったことなら、いつまでもグタグタ引きずっているのもバカバカしいかな、なんて。
思うわけ。
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