発信力と思考力 自分の目指すところへ場を引っ張っていくために
「発信力より、思考力だ」
先日、タイムラインをスクロールしている時に、そんな書き込みを見かけた。
その通りだ。
ある程度、日常的に発信する習慣がついた段階を過ぎると、次は
「思考をいかにして人に伝わりやすい素材に変換し、文章に落とし込むか」
という力がものを言うようになる。
素材に変換するにも、考える力がいる。
文章化するにも、考える力がいる。
センスと置き換えてもいい。
そして、これって、すぐにできるようになる性質のものではない。
私にそれがあるかどうかは、自分ではもう、よくわからないのだけど。
自分の理想とする水準では装備されていないな…とは、思う。
ただ、これって、日々の生活の中で鍛えることはできるところ。
人の話を聞いて、「へえ~」で済ましてばかりいるのは、その機会をみすみす捨てているようなもので、たいへんに、もったいないことだ。
他人は、自分にはない視点や感じ方を、必ず誰でも、備えている。
自分ではない人なのだから。
どんな相手でも、必ずだ。
ブログを書く…などの意味の「発信力」とは別の、発信力が、今私には、大事なテーマになっている。
文章ではなく、実際の言動による発信力。
それを生み出すための思考力。
最近の私は、とある場/そこに集まる人達の中にいると、とにかく、イライラして、言葉が必要以上にキツくなったり、無愛想この上なくなったりしてしまう。
そして、相手に「申し訳ない」とすら思わないようになっている。
だけど、そんな時ですらも、その場やその人達の話/その時の自分の反応や思考からは、いろいろと感じとることが多い。
自分の目指す方向であったり、どのような意識をもっている方がよいのかという認識は、そういう時にこそ、クリアになってきたりする。
なぜ、その状況に腹が立つのか。
なぜ、その言葉にイライラするのか。
なぜ、鷹揚に受け流せないのか。
結局、それは自分の中にある要素に反応しているわけで。
そういうものは、その条件の下でなければ確認のしようがないことだったり、するわけだ。
だから、私は、ストレスは完全になくなってはよくないと思う。
もちろん、その強度や質は、高すぎたり粗悪であったりしては、何らよいことはない。
選ぶ必要はある。
そして、その時には、
「この状況から自分が消化すべきことは何か」
を、よく考えることだ…と、思っている。
それにしても。
忍耐の札を使い果たしそうになる、という時間は、なかなかに、キツイ。
わかってるよ。
良くも悪くも私のように考える者は少ないらしいってことは。
そして、その場の人達の多くは、とても狭い世界の中でしか生きてきていないってことも。
人生の時間の多くを、何らかの閉鎖的な世界観の中で、役割を背負わされて、息継ぎも遠慮しながら…というくらいの道筋だったことも。
今のように、ネットがあったわけでもなく、別の世界を垣間見る機会など乏しかったことも。
その人達の、人生年数分の経験値は、私とは違う消化の仕方をされていることも。
その人達のせいではないことが、たくさんあることも。
離れる、という選択肢もある。
そして、それは、簡単に選べる。
その選択肢を視野にいれつつ。
それでも、その場に存在する「メリット」を活かす手段を、探すほうが。
たぶん。
よい。
(良い、善い)
その場へ対しての発信力は、今、かなり、高まっている。
それを、もう少し、場全体の軌道を変えていくだけの力を持たせるには。
どのような言葉を選び、どのように動いてみせるのか…ということを。
考えて、見つけ出すだけの思考力が、必要だ。
…と、思っている現在。
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時間:11:00~19:00(2月15日は13:30閉場)
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