その目に映るは、願いか事実か
道にも芸にも、「型」ってものがある。
型を舐めてる人間に、自由な作風は、創れない。
全くそういう存在を知らずに、自分の内側から出てくる表現方法だけを使って独創的表現を創る人も、いなくはない。
が、絶対数は少ない。
最近になって、私の「勝手な思い込み」が、いろんなところで表面化する出来事が相次いだ。
たとえば。
1.「商売に長けているという人は、仮に未経験の分野であったり、扱ったことが無い商材であっても、臨機応変に売り方を構築できる」という思い込み。
2.「一つの「芸」の名が付くことを数十年、続けている人は、その世界に限らずとも「型」の重要性を熟知している」という、思い込み。
3.「人の話を聞くことが得意…あるいは仕事としている、というほどの人は、文章の読解にも秀でている」という、思い込み。
4.「共感力の高い人は、相手への配慮にも長けている」という、思い込み。
他にもあるのだけど、あまりいっぺんにあれこれ出て来たので、列挙はやめておく。
これらを、私はずっと、何の疑問も感じずに、そういうものだろうと思っていた。
が、そうでもない事例が立て続けに登場したことで、「おや?」と、考える機会になった。
こんなことが急浮上してきたのには、私自身の「要求のレベル」が上がっている、ということが考えられる。
今までだったらおかしいなとも思わず通り過ぎてきたような範囲を超えてきた…ということかなと。
それが良いか悪いか、ということは、ひとまず置いておく。
(良いこともあれば悪いこともあるんだよ…)
上に挙げた例は、どの例も、文章の前半と後半には、実のところ相関関係がない。
ないのに、リンクしているのが当たり前だと思っていた。
自分の中で勝手に紐付いている判断基準でもって、外の世界を見ているのだから。
その基準でもって行動した時に、ズレが出てくるのは当然だ。
共感力が高い、というのは、ただ共感力が高いということで。
その人が他人をどう見ているか、ということには関係が無い。
共感するからと言って、相手を本当の意味で尊重できるかどうか…なんて、わかるわけがない。
聞く力と読む力は、全く別モノだ。
さらに言うなら、聞く力と、それを正しく解釈する力も、別モノだ。
既知の分野で売ることに長けていても、それがそのままその人の「未知なるものへの対応力」に活きるとは限らない。
一つの芸事を何十年やっていようが、やり方が偏っていたり取り組み方が甘々だったりすれば型云々以前の状態で停滞していても不思議ではない。
モノゴトの理想化というのは、実際に自分が行動する時にも、判断を間違う原因になる。
事実と理想は、切り離して見なければならない。
惚れた弱みでアバタもエクボ…みたいな話なら、微笑ましいかも知れないが。
シビアにモノゴトを考えなくてはならない時に、勝手にできていた紐付けは害になることもある。
こうであってほしい、という願いの視点から見ると、うっかり陥りやすいなと思う。
文字はiPadだと書きにくいな…何度もやり直せてゴミが出ないのはいいところだけど。
しかし、自分の文字はどうも、好きになれん………
けど書く。
書かないと、いつまでたってもいい具合にならないのは「事実」だから。
自分の理想を追求し、それを現実化する道筋で創るものが、いつか人の役に立つ。
自分自身がそれを信じて行う、ということが、私にそういう世界を見せてくれた人達への…それを生み出した世界への還元になるだろう。