旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

褒め言葉…それは、受け取り方で安酒にもご馳走にもなる、人からの恵み

 

と、先日こんなことを呟いておったわけでございます。

 

普段はけっこう、言いたいこと言い放ちますので。

また、大勢の知らない人の中に行っちゃっても、知らないところに行っても、特別緊張もしませんし、焦りもしません。

 

ですが!

 

褒められるのだけは、未だに、苦手です。

こちらの記事にも書いたばかりなんですが。

art-hiro-b.hatenablog.jp

 

 

褒められると逃げ出してる始末だったのにね。

 

あることに気がついた時から、どう居心地悪かろうと、とにかく一旦はまず受け取ることだ、と、思うようになったのですよ。

 

すると、不思議なことに、だんだんと、受け取ることが特別なことではなくなっていきまして。

苦手克服とまでは、まだ至ってないけれど、それでも、嬉しい気持ちや、誇らしい気持ちを、ちゃんと、返すこともできるようになってきました。

 

 

 

私自身が、非常に信頼する人がいて。

その人は、褒めるのが大好きな人で。

たびたび、身に余りすぎて困るほどの褒め言葉をいただいてきました。

褒めるだけでなく、改善すべきところや修正すべき方向についてはキッチリと指摘をくださるので、単に褒め殺しておけばいいと思っている人達とは全く違います。

 

天使の絵を描き始めた時、それ以前の「絵をやめる前」の時代とは真逆な受け取られ方をして、とにかく、居心地が悪かったんです。

 

昔は、絵を褒められるなんてこと、あり得ないって断言してもよかった。

学校での成績は劣悪だったし。

無価値感は底なし沼みたいだったし。

仮に褒められたとしても、そこには、「で?そんなの、やってて何になるの?」「いつまで、そんなことにうつつ抜かしてるの?」という問いもセットになっていたから。

もしかしたら、普通にちゃんと褒めてもらえてたこともあったかも知れないけれど。

私には、そんなこと打ち消してなかったことにしちゃえるくらいの、無価値感の方が大きかった。

 

それが、天使描くようになって、見てくれる人の反応がガラッと、真逆になりました。

 

そりゃもう、気持ち悪かったですよ。

本当に、居心地悪かった。

「天使が描いてある絵なら、誰が描いたものでも、どういう絵でも、いいって言うんだよこの人達は」なーんて、思ってもいました。

失礼な話です。

 

でも。

嬉しい気持ちも、ありました。

 

お金出して絵を描いてほしいって言ってきてくれる人がいる。

そんな日が来るとは、カケラも予想してなかったですから。

 

それでも、なかなか、褒め言葉を素直に受け取るの、できませんでした。

 

 

 

褒めるの大好きな人との出会いがあって。

何度も、「やっぱりもう絵なんてやめる」って思ってた私は、とあることで、その人と、絶対にこの道をやめない、という約束をすることに、なりまして。

一方的な約束ではなく、その人自身も、私がやめないで続けることで背負う様々な苦役を上回る「もの」を背負う宣言をされましてね。

その時、私の未来から、再びこの道を降りるという選択肢は、消えました。

(まあ、もっとも、その選択肢は選べないのだ、ってことは、その時点の私にも、重々、わかっちゃいたんですけどね…)

 

 

そして、ある時。

褒め好きなその人に褒められている別の人が、いつまでたってもその言葉を全拒否し続けてる様子を見てて、思ったのです。

 

「なんて失礼な」

 

って。

 

本気で褒めている人に向かって、「いやいや、私なんて!」とか「褒められるほどじゃないから!」とか、必死に、拒絶しているのです。

 

自分のことは棚にあげ、腹が立ちましたね。

 

「いいって言われてるんだから、いいんだって思えよドアホ!」

てなもんです。

 

もうね、本当に。

心の底から、コイツ馬鹿じゃねえの?って思いました。

(あ、その人とは別にケンカもしてないし、仲が悪くもなかったですし、嫌いでもないですよ)

 

その一幕があったおかげで、私自身も、人が褒めてくださっているのを拒否することが、いかに失礼で馬鹿で傲慢か、っていうのを、思い知ったわけです。

拒否されて、言ってる人は悲しんでるのに。

それを、謙遜とか思ってる場合じゃない。

 

謙遜じゃない、本当に「まだまだだから」と思ったとしても。

理想の状態と、今の段階にギャップがあるなんて、褒めている人だってわかってる。

今の段階を、褒めているんです。

理想の状態と比較して合格だから褒めてる…のではない。

 

そういうことを、非常に、感じまして。

いや、これはイカン…って、思いました。

 

以後、拒否だけはするまい…とやってきて。

だんだんと、素直に受け取れるようになってきて。

 

すると、不思議なことに、自分自身が自分をたたきのめすようなことも、減っていったんですよ。

 

もちろん、それが完全になくなるってことは、ないんだけど。

必要以上の厳しさは、緩んできました。

 

 

人は鏡、とは、よく言ったものだな~と思います。

全拒否を全力で続ける人を目の前にして、やっと、自分のしてることがどういうことか、理解できたし腑に落ちた。

あれがなかったら、未だに私、こんなのをお金もらってやろうなんてあり得ない…みたいな感覚を持ち続けてたでしょう。

 

おかげで、今、「この価格を出すのがイヤなら帰った帰った!」みたいな感覚を、ちゃんと持つことができるようになってきてます。

 

それでも、価格設定そのものがどうもまだ、オカシイらしいというのは、折々に感じるんですけどね(笑)

 

 

 

褒め言葉を拒否する…ってね。

あらゆる豊かさを拒否するってことに、繋がってます。

単に、「相手の言葉を拒否している」だけでは、ないです。

自分に向かって流れてこようとしている大きな何かを、せき止めてるんです。

 

もちろん、おべんちゃらや、下心がある褒め言葉は、見抜いておかないといけない。

けど、それすらも、拒否する必要はない。

そういう時は、上っ面の言葉だけサラッともらって、それでおしまい。

相手を受け入れるんじゃなくて、言葉だけを、もらっておく。

誰がなんのために言った言葉か…なんて、脳に記憶させとく必要もないですからね。

 

でも、褒められたということを受け取る…ってことは、自分自身の感性を豊かにします。

 

褒めすぎたら図に乗る…とかね。

そういうのは、褒めすぎるからいけないのではない。

 

指摘すべきところはちゃんと指摘する、修正すべき方向は、ちゃんと修正させる。

5回褒めるうちの1回は、そうしたことも含めて、伝える。

人によっては、もっと指摘は少なくてもいいかも知れない。

 

 

人を褒める

それは、甘いお菓子をあげる、っていうことではない。

 

その相手が食べているものが何かを、教えてあげること。

私は、そういう風に、褒め好きな人から学んだ。

 

その人の「褒めるという行為」には、根底に、すごい厳しさがあって。

「自分が何をやっているのか、それにはどういう価値があるものなのか、しっかり自分の目で見極めなさい」

という要求がある。

 

本人がそんなこと本当に思ってるかどうかなんか、関係なくて。

私にとっては、そういうものだから。

 

 

褒められることによって、舞い上がってしまうとか。

うっかり褒め言葉にのっかったら、逆に馬鹿にされるんじゃないか、とか。

 

そんなことを感じているうちは、褒め言葉は自分の糧にはなっていかない。

 

それこそ、「一時的にいい気分にしてくれるドラッグみたいなもの」でしかない。

 

褒めてくれた人の好意を、悪酔いする安酒にしておくか、滋養たっぷりのご馳走にするかは、受け取る自分次第だから。

 

 

てことで。

相変わらず褒められるのが苦手なままの私は、もっと受け取る機会を増やすべく、人に喜んでもらえるものを提供することを考えるのでありました。

 

 

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