旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

人に話すことで、棚卸しをする

定期的に、ここまでの道のりを棚卸しするような機会がめぐってくる。

 

自分の紆余曲折を、人に体験談として話す、ということは、道筋にカタチを与える、ということでもある。

 

起きたこと

思ったこと

感じたこと

やったこと

その結果

動いてきたこと

広がった波紋

くらった流れ弾

 

 

過去に通ってきた道筋での出来事について、痛みや苦しみといった感覚がほとんど消えているな…と、気がついた。

薄くなってきてるな、とは思ってたけど。

 

定期的に巡ってくる機会の、タマモノだろう。

 

 

 

ここまでに通ってきた様々な出来事ってのは、後から振り返ると、とにかくどれもこれもが奇妙なまでに作為的で。

そういう風に感じるように小細工が仕組まれてるんじゃないかと疑うくらいに、見るべきところにマーキングがされている。

高速道路に設置されている案内表示のように。

ただし、表示されているのは、道の選択肢ではなく、見るべき箇所を示す目印。

 

一回目の「話す機会」で見るべきところ。

二回目の機会では、また違う見るべきところ。

繰り返すたびに、違うマーカーが出てくる。

前回見たところには、別の色のマーカーがついていて、新たに気がつくべきことがある表示。

 

未来へ向かう選択肢は一本しかないのに。

過去を振り返ると、無数に選択肢が現れる。

 

 

 

人間てのは、実にカンタンに、あっさりと、巧みに、己の記憶を捏造するようにできている。

過去のことを整理していて、時々、すごい思い違いをしてたことを発見する場合があるけれど。

裏が取れた場合は、ラッキーで。

ほとんどは、気がつきもせずに、いつの間にか、違った記憶が本当にあったことだと思って、そのまま生きていく。

 

何度も人に話す機会が回ってくるのは、いいような、悪いような。

 

 

2009年の誕生日以降、私が乗ってる流れは、明らかに、変わった。

自分で考えて動いているようで、実のところ、現れる飛び石を伝って、すでに書かれた筋書きの通りの場所へ向かっている。

 

今でも、いつどこで書かれたかわからないような筋書きの片鱗を感じると、文句を言いたくなることに変わりはない。

けれど、もう以前のような「怒り」までには、至らなくなった。

グチの一つも言いたいよ、っていう程度。

 

 

 

今まで、目の前に出て来たことは、一通り、やってきた。

一体何になるのか皆目わからないままでやってきた…ということでも、今から振り返れば、「あれをあの時やっておいたから、今活きてる」という答え合わせもできている。

だから、最近始めた声のトレーニングも、あまりにもしつこく現れるので実際に着手してみた。

まだ、この先それがどう活きるのか…そういう時が来るのかも、まったくわからない。

2009年の「未来のヒントが山盛りになって詰め込まれていた半年間」のうちに、この声のトレーニングに関する目印も、出てきていた。

 

 

これから、どういう流れが来るのか…

さっぱり、わからない。

予測を立てることも、もうやめてしまって久しい。

 

ただ、年々、楽しくなっていることだけは、間違いない。

 


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