肩書きを「肩」に背負うのは、未熟さとの落差を背負いながら生きていく…ということ
自分で決めた肩書きに、自分自身が精神力を鍛えられる…ということが、よく起こる。
ペンネームは何度も変えてきたけれど、肩書きは一度、変えただけ。
それも、「絵師」のところは最初から変えずに、現在に至っている。
その「絵師」の部分こそが、今も進行形で、自分のメンタルを鍛えてくれている。
ほんの4年くらい前まで、自己紹介の時「絵描きです」という言葉が言えなかった。
キーボードでテキストを打つことは、作業的に流れでできていたけど。
自分の口からそれを出すってことが、本当に、できなかった。
初めて初対面の方に「絵描きなんですよ」と言えた時のことは、今でも鮮明に覚えている。
それくらい、一大事だった。
まだなっていなくても、なりたい肩書きをまず、名乗ってしまえ。
私も、その考え方に賛成している一人だ。
まだそうなっていない、と自分ではわかっているから、抵抗がある。
それでも、まず、名乗ってしまう。
すると、そこに道筋の方から動いていく。
とは言っても。
私は、絵師を名乗り始めた頃、絵師になりたいから名乗ったとも言えなかった。
他にいいようがないために、それを採用した…というだけで。
むしろ、他にもっとよい表現があるのなら、それを使いたいと思っていた。
でも、どんだけ考えても、抵抗ありありでテキストを入力し続けても、他の表現は降ってきてくれなかった。
結局、今に至る。
そして、変えることは考えていない。
なんだけどね。
今でも私は、自分がこの肩書きを名乗ってていいのか…と思うことが多々ある。
絵がコントロールできないから…とか、そういう話ではなく。
はっきり言って、誰でも練習次第でできるようになるレベルの技能しかないし。
アイデアだ構成だといったあたりは、もう自分では全く出してない(出せない)ので、その方面が秀逸な人とは比較にならない。
そして、絵描きを名乗っておられない別の職業の方のほうが、どう見ても上手かったり、光るセンスがあったりする。
それでも、そういう場面に数々、数限りなく遭遇してきても。
やはり、この肩書きを名乗り続ける以外の選択肢が見えてこない。
なので、鍛えられるしかない。
「自分なんて」というマイナスループに落ち込むのはカンタン。
実は、その方がずっと楽だ。
楽だから、みんな、自分なんてそんな…という理由で、やめていく。
仕事にするとかしないとか、仕事にできるとかできないとか、そんな段階とは違うところで、やめていく。
常に自分は未熟だと感じ続ける…それがないと向上もしない。
けれど、それがあるために、それを背負い続けることができなくて、やめるのだ。
そこのあなた。
本当はコレをやりたかった…と、そう思ってることがあるんじゃないですか?
スゴイ人がいっぱいいるし…とか、今更始めたって…とか、なんかそんな思いで、自分を納得させていませんか?
それ、間違ってます。
あなたは、「自分なんて」というその落差を背負い続けることができなかっただけ。
今、そのことを仕事にできている人や、仕事ではないけど好きで続けている人たちは、多かれ少なかれ、その落差を自分の肩に背負って、それと共に生きている。
でも、それを見たくないので、「才能があるから」「運が良いから」「時代にあってた」などなど、具体性はないけど納得しやすい言葉で「自分とは違から」ということに、してるだけです。
ま。
そんなこと言ってもね。
「あんたみたいに好き放題やりながらダンナに食わしてもらってるヤツが偉そうなこと言っても、説得力ないから」
って、思う人はいっぱいいるよね。
その理屈が、話が噛み合ってねえよ…ってことは、わかってるかどうか、知らないけど。
そういう、「一般論として納得しやすい論法にズラしていく」ことをやめないとね。
自分の本音も、わからないまま…ではないかな。
今日も、自分で決めた肩書きに自分が痛い思いをする…っていう経験をしたわけで。
その矢を、抜いたり、時には抜かないままにしたり。
そうしながら、明日も、明後日も、その先も、「絵描き」を名乗っていくんです。
たとえ、絵描きを名乗らない人の方がよっぽど上手かったり、いい絵を描いてても。
それは、看板を下ろす理由には、ならない。
仕事になってないなら肩書きと言えないだろ、とか言ってきた人も今までにはいたけど。
関係ないし。
「業(ぎょう)」ではなく「業(ごう」だから。
業(ごう) というタイトルがついた不動明王。
B2(515×728mm)の画面を色鉛筆で埋めるのは、なかなか大変。