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緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

信仰とか宗教とか以前に、絵描きだからね

★見えないセカイ ★作品制作に関する処々

※本件は、最近起こった具体的なやりとりを踏まえて書いている。

 が、その出来事そのものは、当事者同士ですでに解決済みである。

 関係者に対して、なんらマイナス感情はないので、あしからず。

 結局、気難しい私の地雷をかすめた一件だった…というだけの話だったが、ネタとしては良いので採用した。

 

開運グッズとか、縁起物とか、神仏に関わる「モノ」を非常にありがたがる人達がいる。

 

それに効果があるのか、ないのか。

それを重要視するかどうか…という前に、「神仏」を扱っているモノだ、という意識を強く感じる(らしい)人。

 

 

申し訳ない。

私は神絵絵描きだし、時には縁起物の一つや二つ造ることもある側だけど。

私自身は、そういうモノをあまり、重大なものとか、神聖なものとか、思ってない。

 

まず、私の世界観におわす神々は、軒並み「神々しさ」とか「崇高さ」から、離れている。

 

 

 

人は、自らが、神である。

 

その、「自分という神」の相似形が、神をどう感じるかという「世界観」に繋がっている。

らしい。

自分とあまりにもかけ離れているようには、感じ取れないものだ。

ということらしい。

大いに、納得である。

 

 

私の中には、「この線からはみ出してはダメだ」という、不思議なほど強固な境界線が昔から存在している。

どんなに神の悪口言ってても、アイツら呼ばわりしていても。

クソだのジジイだのヒゲオヤジだの、小学生男子並みのボキャブラリーで文句言ってても。

それでも、今まで侵してこなかった線だ。

いつ、どういうきっかけでそれが自分にインプットされたのか、私にはわからない。

 

もしかしたら、それこそ、生まれる前からの線引きだ…という可能性もある。

 

スピリチュアル関係の仕事をしている人達の中には、私のその境界線を軽々侵してしまっていると思える人達もたくさん、いる。

別に、その人達に何か言うことはないけど、怖いな~と思いながら見てる。

よく、あんなことできるな…と、思う。

 

しかし、私の口の悪いつっかかり方を見た人が、「よくあんなこと言えるな、罰あたりが!」と、思っていても不思議ではない。

なので、ある意味、お互いさまなのだ。

(だから何も言わない)

 

 

自分の中に不思議に深々と打ち込まれている楔のおかげで、悪口ばかり言ってても、本当の禁忌は侵してないはずだ。

私の世界観の中に存在しない禁忌は、もしかしたら、あるかも知れず。

そういうのは、知らないから踏み越えている可能性はあるけれど。

 

 

で。

そんな風に、神とかアッチのヒトらを、全然崇拝していない罰当たりな私は、神仏と関わる以前から、絵描きだった。

 

高校の時の修学旅行は、古美術見学旅行。

当時の私の観賞ポイントは、観音像の腰のSラインだっだり、すっと伸びた首筋だったり、なんとも微妙な動きをした指先だったり…で。

およそ、煩悩しかない目で堪能させてもらってた。

まあ、今でも基本は大して違ってない。

 

ただし、今の私にとって「仏様」は、神よりも触れることにためらいがある、ちょっと遠い存在なので。

さすがに、あの頃の、ほとんどストーカーまがいの目線を注ぐってことは……(^_^;)

 

 

じゃあ、龍はどうか…というと。

 

私はずっと前から、古今東西あらゆる達人の絵を見ても、もちろん自分の絵でも。

「これが龍か?なんか違うんじゃないか?」

と思えて仕方ない。

未だかつて、「これだ、これは龍だ!」と実感する絵には出会ったことがない。

 

そもそも、龍のフォルムというものからして、なんか違う。

 

しかし、認識されやすい姿を描く、ということに一つの価値を見ている面もあるので、今のところは「いわゆる龍」のスタイルを描いている。

 

が、それは、あくまでも、暫定措置にすぎない。

 

これが龍神になったら。

もっと、手が届いてない。

未だに、そこへ到達する道筋は、片鱗も見ていない。

手探りどころか、糸口がない。

唯一「ああ、これかも」と感じたものがあったけれど、それはとても、制止画で表現できるものではなく、更に手段に悩みができただけだ。

 

今、自分が描いている「龍と認識されやすいフォルムの何か」は、私にとって、どうしても破壊しなくてはならない枠でもある。

 

まあ、そういう感覚でいる、ということが、私が自分の絵描き道を「格闘」だと捉えている一端ではある。

 

 

こんな、ちょっと偏った考えだからなのか。

 

私は、神絵に神々しさや崇高さを付与したいと思ったことがない。

私の感じる神は、なんかそういうところから離れているので。

 

 

同じように、縁起物と言われる龍も、縁起に関わる要素など度外視である。

 

縁起物として、昇龍が好まれる。

それは、知っている。

 

しかし、絵に昇龍として出てこないなら、昇龍を描く理由はない。

 

その時、絵の中に「出て来たがった」モノが「昇龍のカタチ」をしていれば、昇龍になるだろう。

 

だから、昇龍として描いていないものは、昇龍にはなり得ない。

 

いくら、紙の上下を逆にしたとしても。

それは、昇龍ではない。

 

むしろ、そんなことされたら変なエネルギーの流れ方をするんじゃないかと思う。

(そこらへんは、私は測定とかできないので確証はないが、そんな気がする)

 

縁起をかつぐ系の人の中には、そうすれば頭が上に来て昇龍になる、と考える人がいる…ということを知った。

これは、よい経験だった。

今までそんなこと私に言ってきた人はいなかったので。

そんな発想が存在するとすら、思ってなかった。

 

確かに、物質としてのモノをどう扱おうと、それは、持ち主が良いと思えば良いだろう。

絵を逆さまにして、それで満足するのならば。

満足、という点にケチをつける必要はないのかも知れない。

 

けどさ。

気持ち悪いじゃん。

 

タロットのように、上下逆になっている状態に意味があるものであればいいよ。

 

でも、絵を上下逆に観賞する?

 

しないよね?

 

なぜ、縁起物になると、急にそういうことになるのか。

絵描きの私には、理解できない。

 

何かの呪い(まじない)かな、とは、思うかも知れないけど。

そういうのは、普通(っていうのもイヤな表現だけど)、順当な流れを曲げるために行われるものだ…と、思うんだよね。

縁起のよい昇る龍にするための上下逆転なんて…そういう意味でも、なんか、違うよ。

 

 

見た時、純粋に、「どっちが上かわからない」ために上下逆で見てた…ってことなら、全然構わないけど。

そういう時は、描いてる側も、どっちが上でもいいよって感じでやってることが多いので。

見た人が、こっちがいいと思った向きが正解だと思うから。

 

ああ…そういう意味で言うのなら。

明らかに上下がある絵でも、見た人が「逆の方が自然に見える」「逆の方がいいと思う」ということなら、それはアリ。

その場合は、その人にとってのエネルギーの流れる方向がそれでフィットしてる、ということだから。

 

 

頭が下向いてるから縁起ものとしてはイマイチ、と思うのなら、それを使わないことだ。

それが最も正当で、唯一の対応。

 

 

 

 

 

 

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