降りてきている龍の姿を天地逆にしたって昇龍にはなりません。理のないことを無理と言います。
上から降りてきて正面を向いた龍
という絵をFacebookにUPした時の話。
上から降りてきているので、龍の頭は「絵全体の中の、下の方」に位置している。
その絵に対して
「昇龍の方が縁起がいい。だから上下を逆に飾るといい」
というコメントをつけた方がいらっしゃった。
「いやあ、それはないですよ」
とサラッと受け答えることもできたけれど。
そのコメントは非常に、衝撃的だったので、真面目に返信を書いた。
「絵の天地を逆にしたからといって、その龍は昇龍になるわけがありません」
要約すればそういうことだが。
どうも噛み合わない感じを受けたので、もっと細かく、砕いて砕いて、何度かやり取りをした記憶がある。
そのお相手は、スピリチュアル系の何らかの仕事をされているような雰囲気だった。
そういう方が、絵の天地を逆にすることを提案したというのが、殊更、衝撃だった。
人は、自らが、神である。
その、「自分という神」の相似形が、神をどう感じるかという「世界観」に繋がっている。
らしい。
自分とあまりにもかけ離れているようには、感じ取れないものだ。
ということらしい。
大いに、納得である。
私の中には、「この線からはみ出してはダメだ」という、不思議なほど強固な境界線が昔から存在している。
どんなに神の悪口言ってても、アイツら呼ばわりしていても。
クソだのジジイだのヒゲオヤジだの、小学生男子並みのボキャブラリーで文句言ってても。
それでも、今まで侵してこなかった線だ。
いつ、どういうきっかけでそれが自分にインプットされたのか、私にはわからない。
もしかしたら、それこそ、生まれる前からの線引きだ…という可能性もある。
スピリチュアル関係の仕事をしている人達の中には、私のその境界線を軽々侵してしまっていると思える人達もたくさん、いる。
別に、その人達に何か言うことはないけど、怖いな~と思いながら見てる。
よく、あんなことできるな…と、思う。
しかし、私の口の悪いつっかかり方を見た人が、「よくあんなこと言えるな、罰あたりが!」と、思っていても不思議ではない。
なので、ある意味、お互いさまなのだ。
(だから何も言わない)
自分の中に不思議に深々と打ち込まれている楔のおかげで、悪口ばかり言ってても、本当の禁忌は侵してないはずだ。
私の世界観の中に存在しない禁忌は、もしかしたら、あるかも知れず。
そういうのは、知らないから踏み越えている可能性はあるけれど。
で。
そんな風に、神とかアッチのヒトらを、全然崇拝していない罰当たりな私は、神仏と関わる以前から、絵描きだった。
高校の時の修学旅行は、古美術見学旅行。
当時の私の観賞ポイントは、観音像の腰のSラインだっだり、すっと伸びた首筋だったり、なんとも微妙な動きをした指先だったり…で。
およそ、煩悩しかない目で堪能させてもらってた。
まあ、今でも基本は大して違ってない。
ただし、今の私にとって「仏様」は、神よりも触れることにためらいがある、ちょっと遠い存在なので。
さすがに、あの頃の、ほとんどストーカーまがいの目線を注ぐってことは……(^_^;)
じゃあ、龍はどうか…というと。
私はずっと前から、古今東西あらゆる達人の絵を見ても、もちろん自分の絵でも。
「これが龍か?なんか違うんじゃないか?」
と思えて仕方ない。
未だかつて、「これだ、これは龍だ!」と実感する絵には出会ったことがない。
そもそも、龍のフォルムというものからして、なんか違う。
しかし、認識されやすい姿を描く、ということに一つの価値を見ている面もあるので、今のところは「いわゆる龍」のスタイルを描いている。
が、それは、あくまでも、暫定措置にすぎない。
ことに、「龍神」という存在になったら。
未だに、そこへ到達する道筋は、片鱗も見ていない。
手探りどころか、糸口がない。
唯一「ああ、これかも」と感じたものがあったけれど、それはとても、制止画で表現できるものではなく、更に手段に悩みができただけだ。
今、自分が描いている「龍と認識されやすいフォルムの何か」は、私にとって、どうしても破壊しなくてはならない枠でもある。
まあ、そういう感覚でいる、ということが、私が自分の絵描き道を「格闘」だと捉えている一端ではある。
こんな、ちょっと偏った考えだからなのか。
私は、神絵に神々しさや崇高さを付与したいと思ったことがない。
私の感じる神は、なんかそういうところから離れているので。
だからって?
絵の天地を、逆にする?
問題外だ。
縁起物として、昇龍が好まれる。
それは、知っている。
しかし、絵に昇龍として出てこないなら、昇龍を描く理由はない。
その時、絵の中に「出て来たがった」モノが「昇龍のカタチ」をしていれば、昇龍になるだろう。
だから、昇龍として描いていないものは、昇龍にはなり得ない。
いくら、紙の上下を逆にしたとしても。
それは、昇龍ではない。
そもそも、昇龍という龍がいるわけではなくて、龍が上へ向かっている姿を捉えて昇龍と呼ぶのだ。
上に向かっていない龍を、姿だけ逆にしたって、昇ってる姿になるわけがない。
縁起をかつぐ系の人の中には、そうすれば頭が上に来て昇龍になる、と考える人がいる…ということを知った。
これは、よい経験だった。
今までそんなこと私に言ってきた人はいなかったので。
そんな発想が存在するとすら、思ってなかった。
確かに、物質としてのモノをどう扱おうと、それは、持ち主が良いと思えば良いだろう。
絵を逆さまにして、それで満足するのならば。
満足、という点にケチをつける必要はないのかも知れない。
けどさ。
気持ち悪いじゃん。
タロットのように、上下逆になっている状態に意味があるものであればいいよ。
でも、絵を上下逆にする?
しないよね?
なぜ、龍相手になると、急にそういうことになるのか。
絵描きの私には、理解できない。
現実にそういう場面に出くわしたとしたら、「これは何かの呪い(まじない)か?」とは、思うかも知れない。
何らかの、物事に働く力を曲げようとする呪いだ...とね。
縁起のよい昇る龍にするための上下逆転なんて…そういう意味でも、なんか、違う。
見た時、純粋に、「その絵、どっちが上かわからない」ためにうっかりと上下逆で見てた…ってことなら、全然構わないけど。
そういう時は、描いてる側も、どっちが上でもいいよって感じでやってることが多いので。
見た人が、こっちがいいと思った向きが正解だと思うから。
ああ…そういう意味で言うのなら。
明らかに上下がある絵でも、見た人が「逆の方が自然に見える」「逆の方がいいと思う」ということなら、それはアリ。
その場合は、その人にとってのエネルギーの流れる方向がそれでフィットしてる、ということだから。
頭が下向いてるから縁起ものとしてはイマイチ、と思うのなら、それを使わないことだ。
それが最も正当で、唯一の対応。