その場所は、癒しか泥沼か害悪の巣か…自分の居場所は自分で決められる
人間、誰でも弱気になることはある。
凹むこともあるし、落ちることもある。
八つ当たりもしたくなるし、ちゃぶ台ひっくり返したくなることもある。
けど。
それを、何かの正当化の材料にするかどうかってのは、自分で選べるわけで。
過去に痛い目にあったことを看板に書いて、そこに注目してもらおうとするのは、確かにある意味カンタンに関心を引けるけれども。
その看板に気を引かれる人達がどういう人達なのか…ってのを考えれば、それを売ることでは得しないと思う。
ここまでたどってきた道筋を開示することと、痛い目にあってきたことをウリにするのって。
なんか、違う。
あくまでも「それは過去の話」と、自分自身も納得していることを見せるなら、開示だと思う。
(納得していることと、傷がすでに完治して痛まないことは、別の話)
今も「されたこと」を引きずっていて、まだ過去のことにできてないものに注目してもらおうとするのは、きっと、自分にとってもよいことじゃない。
どういう風に見せることが「開示」で、どういう風なら「ウリ」だ…なんて、一束からげにはできないけど。
そういうのって、なんか、皮膚感覚というか、ニオイというか…
非言語の領域で、伝わるんだよねえ。
私は、人間なんて誰しもそんなに強いばかりじゃないって思うから。
傷の舐めあいがあっても、いいと思う。
そういう場があっても、いいと思う。
ただし。
そこから外に出て行こうとする人を、残る人が引き留めない。
それが条件。
必要なだけそこに居て、もういいかな、って思ったら。
誰にもジャマされず、引き留められずに、出て行ける。
もし、引き留められるのなら…引き留められると感じさせるなら。
その場は、安息の場でも休息の場でも癒しの場でもなく。
ただの、泥沼。
人を引きずりこもうとするのなら。
泥沼ですらなく、害悪の巣だと思う。