誰から学ぶかよりもっと大事なのは、どう学ぶかという自分の姿勢
誰かに師事(とまでいかずとも、何かを教えてもらう立場になる)する時、どういう姿勢で臨むのか…っていうのは、後の成果に大きな差を生むと思っている。
もちろん、今の段階の私なんて、全然大したコトはなく、まだまだこれからすごく、いろいろやってみて、取捨選択もしなきゃならないし、磨く必要があることだらけ。
でも、誰かに学ぶ、ということを取ってみれば、今まで全部成功してきたと思っている。
学ぶ…でなくてもいい。
誰かにペースメーカーになってもらう…とか。
監督でもいいし、編集者でもいいし、親方でもいいし、呼びたいものに変換してくれればいい。
とりわけ、今までの自分の生き方、道筋に影響が大きいと思う人を3人思い浮かべることができるわけだけど。
その3名に共通するのは、「命令をしない」ということ。
そして「それなのに、どうしても、その通りにしようと思ってしまう」ということ。
もちろん、ただ黙って「その通りにする」なんて真似、私がするわけないんだけどね。
絶対に裏をかいてやる、と、常にどこかで思っているから。
ただし、それは「反抗する」ということを意味しない。
裏をかく=予想を上回るものを返す、という意味。
そして、決して「ちやほやしない」のも、3人の共通点だ。
その3人の中で一番長く関わりを持っている人とは、滅多に会わない。
けれど、よくもまあ、あんな、海のものとも山のものともつかぬ状態の時から、あれほどちゃんと付き合って面倒みてくれたもんだよ、と思う。
そうは言っても…
「自分を認めてくれて、自分を引き立ててくれて、手をさしのべてくれる」
人だ…っていうわけじゃ、ない。
その人に、自分が作るものを預けたいから、一時的にでも預かってもらえるレベルに上がろうとしてきた。
引っ張ってくれてるのがその人でなかったら、ここまでは頑張らなかっただろうと思う。
「よく、そんなにやってくれるね。なんで?」
とか、聞かれても(笑)
それは、こっちのセリフだ。
その人は、
「けっこう、むちゃくちゃなことを無責任にぽんぽん言うんだけど、それをちゃんと信じてやってくれた人は、どんどんすごいことになってるから、あながち<あてずっぽう>でもないのかな、と時々思う」
なんて言うけども。
あてずっぽうなわけがない。
少なくとも、並の人がやる<あてずっぽう>の領域ではない。
でも、きっと、「あいつは嘘つきだ」みたいなことを思う人も、いるだろうな。
実際に、仲間だった人の口から、「自分はあの人から信用されてない。軽く扱われてる」なんていうグチを聞いたこともあるし。
「ちっとも、言われたとおりにならない」と、だんだん不信感を持って行く人も、いた。
そういう気持ちが生まれてくる理由は、私も、わからなくはない。
でも、それに自分の意思が浸食されてしまうのを受け入れる…というのは、相手の問題じゃなく、自分の問題だ。
自分が描いた期待の通りに物事が進まないことや、イレギュラーな出来事が続きすぎることや、背伸びもジャンプもしなきゃ手の届かないところにポンと的を置かれること。
それらを、自力でどうにかして、吸収していかなきゃならないから。
ラクではない。
それを苦に思わず、あまり重く受け止めすぎず、現実になろうがなるまいが「やってみた、ということそのもの」を成果だと思う…みたいな。
そんな感覚の人じゃないと、結構、難しいのかも知れない。
理解できないことを言う…という点にかけては、一番関わる回数の多い人も、とんでもない。
本気で理解できないことを、平気で言ってくる。
けれど、その、理解できない、っていう現象は、お互いの立脚点の違いとか、バックボーンの違い、生きている世界の違いの表れでもある。
私は自分の世界の中だけでは限界があることを、知っている。
有能か無能か…などの話ではなく、現実そうである、ということ。
複眼を持て、という話をこの前UPしたけれど、
誰の言うことも聞かない…というのが私の絵師道ですけども。
新しい名刺と、複眼を持とう…という話 - 緋呂の異界絵師通信
それを、現実に展開するとなれば、私のような、ある意味「箱入り」な人間の偏狭な発想だけでは、活かしきれないところが必ず、出てきます。
優れた将には優れた軍師が必ずいるものですけども。
やっぱり、一人では限界があるんですよ。
まして、私のように、できることとできないことの落差が激しい者にとって、できないこと、わからないこと、見えないことを補ってくれる複眼は、必要です。
そういうこと。
車についているサイドミラーやバックミラーみたいなもん。
もう一人は、自分が他人の人生にどれほどの影響を与えているか、っていうことに無頓着(に、見える…見せている?)のだけど。
まあ、いいでしょう。
人にはいろんな役割があって、いろんなやり方がある。
自分が勝手に動き回ってそれを見せることで、人が動いていく…という役割の人も、いる。
影響されろ、なんて、一言も言ってないのに、勝手にそうなっちゃう…っていうだけの話。
でも、おかげで、見ているだけで得るものがたくさんある。
中には、そこまでの影響を受けなかった人達も当然、いる。
すごく親密になったように見えても、受けた影響は驚く程小さい…みたいな人達。
いろいろなことを教えてくれようとはしていたけれど、私にはあまり必要にならなかった…なんてことも、ある。
でも、それもまた、役割の違いであって、その人達が悪いわけでもないし、私が悪いわけでもない。
人には、いろんな時期があって。
いろんな立場、いろんな世界がある。
それが一時的に接点を持つ、というだけでも、すごいこと。
そこから、互いの波紋を受け合って、何らかの共鳴が起きる…というのは、さらに、すごいこと。
そう思うと、3人も挙げることができるって、すごいのかも…って、思う。
もっとうんと若い頃にも、分岐点になったなと思える人との出会いがあった。
コミュニティに属すかどうか、っていう問題ではなくて、
「人の出会いを大事にしない」
ってのは、仮に成功したとしても虚しさが残ったり、長く続かなかったりするんじゃないかな…って、思うのだ。
何かに属すかどうか、っていう話をするなら、私は全然、そっち向きの人間じゃないしね(笑)
とにかく。
今の自分とは違った舞台に上がろうとするのなら
(というか、意図して無くてもそうなっちゃう…そういう時がある)
時には、我を捨てないといけないこともある。
それを求めない相手は、安心できるし楽な付き合いができるけど。
自分の領域を広げるには、あんまり、役には立たないもんだ。
認められてないように感じる…とか。
支配されそう…とか。
何かを脅かされそう…とか。
騙されてるのかも…とか。
自己意識は、常に、そんな風に、楽な方へ向かせようとする。
それも当然。
安全確保という本能からしたら、ワカラナイものには近づかない方がいいのだから。
私は、そんなんじゃ面白くないよね、って、思うだけだ。
(そんな大風呂敷ばかり広げてる自分ってのも、どうかと思うけどねwww)
7/21~26、名古屋市内で仲間と4人の合同展をやります!