ボディへのペイントは、絵師からの「言祝ぎ」
ボディペイントは、すごく好き。
5/29は、それをまた実感した一日でした。
紙や板といった媒体ではなく、それ自体が生きているボディへのペイント。
それは、一種の「まじない」要素も帯びます。
古今東西、顔や体へ何かを描くというのは、その多くが、まじないのため。
民族の文様であったり、何らかの効果を生み出すための印であったり。
肉体に描く、ということ。
それは、単なるペイントではありません。
そこには、神の姿を現す「異界絵師」の手からの「言祝ぎ」を、のせています。
私はなんだかんだとブログが多弁ですけども。
結局、肝心なことは、言語には翻訳できないことが、多いです。
だから、絵師の「言祝ぎ」は、やはり絵によって施す…のが、筋ってもの。
他にもたくさん、撮ってくださってたのですが…この冬佳ちゃんの表情がもう、なんともはや、良すぎて。
ひかるくんの写真、完全にそれどころじゃなくて一枚も撮らせてもらってないので、みなさんが撮っててくださって本当、助かりました!
ありがとうございます!
「踊る」という表現を選んで、それに心血注いで全霊をかけてきた人と、そのパートナー。
舞台というのは人を裸にする。
恥もプライドも欲も何もかもさらけ出してそこに立つもの。エンターテイメントの価値が下がってるのではなく淘汰される時代がやってきたということ | Fuyuka Ohtaki.com
けど、見ている人に伝わるのは
フリなんかよりもその人から出ているなにかだと
彼女は言っていた。
彼女への思いだけで体が動いていたと思います。
舞台に立つことは自分をさらけ出すことって
意味が初めてわかりました。
舞台の上は、容赦ない。
誰も守ってくれない。
そこに立ったら最後、役割を完遂するまで逃げ出すこともできないし、ただ、晒される。
当てられる光と、その下にできる影。
同じ場に立つ者同士だけが、お互いを守り、支え合い、更に力を引き出し合うことができる。
この日の、ペイント。
私の目指したものは、何だったか…というと。
冬佳は、火の鳥。でも、不死鳥ではない。
自らを燃やして、光を放つ。炎の中で再生し続けるけれど、無限ではない。
だからこそ、儚さと強さを兼ね備えることができる。
そんな「ダンサー大瀧冬佳」への言祝ぎは、
【コントロールを失わず、己の意のままに炎を操り、あらゆる人々の内に息吹を吹き込む者となれ】
ひかるは、静かに佇む大輪の花。
その花の中でなら、火の鳥は羽を休めることができる。
そこから飛び立ち、再び、その掌中へと還る。
強さやしなやかさ、したたかさを内に秘め、どのような姿で戻ってこようとも、変わらず受け止めることができる。
そんな「ダンサーはしかわひかる」への言祝ぎは、
【全霊を解き放ち、芯をもたらす者となれ】
…まあ、かなり恥ずかしいので、そんなことは口に出さなかったのだけど(笑)
でも、伝わっていた。
びっくりしたけど…伝わってた。
冬佳ちゃんが、Facebookで書いてくれた、この言葉。
ひかるくんの、この言葉。
伝わってたよ、筆に載せた言祝ぎが。
ショーも奇蹟みたいな素晴らしいものだったけど。
これは、私にとっては、今世紀最大というくらいの奇跡的なこと。
私は、実のところ、東京のフェスタに出展する予定は、なかった。
セルフマガジンを置いてもらえばいいか…と、そんな程度で。
当日遊びに行くかどうかも、あまり、考えてなかった。
けど、ある日、冬佳ちゃんが、出展してダンスショーやろうかな…みたいなことを、書き込んでいて。
思わず「ボディペイントしたい!」と突っ込んだ。
それが、始まり。
そのために出展者の仲間入りをした。
一日中描くわけじゃないので、自分のブースでのメニューもペイントにすれば、道具を余分に持って行かなくてもすむな…と。
そして、その場にいない間も、原画の展示があればどうにかなるかな…なんて。
最初から、このペイントのために出展したという。
だから、それが彼らに伝わった、ということは、これ以上ない大きな喜びであり、成果でもあり。
自分が、何を求めてるのか…ということも、この機会がより、はっきり教えてくれた。
世の中には、いろんな技法でボディに描く人達がいる。
何万人動員といった規模の場に立つ人に描く人もいれば。
ほんの少数で構成された部族を守るために描く人もいる。
中には、自分の技術を誇示することが目的の人もいるし。
人を操ったり、縛る「呪」として描く人もいる。
そして、私は、ボディアートの専門家ですら、ない。
節操なく、どんな画材でも使うし、描けるものになら何にでも描きたい。
でも、そこにはやっぱり、「祝」という概念が通っている。
神だったり、龍だったり、カタチの定まらない文様や抽象画であったりと様々だけど。
こういうことが非常に、実感をもって感じられるようになったのは、たぶん、「トシを食った」からだ。
若い頃は、言祝ぎなんて一切関係なかった。
どうでもよかった。
人生の持ち時間、折り返しを過ぎている今。
そうした概念が、人間にとってどんなに大事な「側杖」になるか、ってことが。
自分のこととして、わかってきた。
肩書きを変えようか…と迷ったこと。
セルフマガジンを作り直したこと。
名刺を作り直すために、絵とあかり玉の見せ方を考えたこと。
これらの行程で、「魂に火を灯す」というフレーズに、概念が集約されてきた。
今回の冬佳&ひかるへのペイントは、そのフレーズにさらに「言祝ぎ」というエッセンスを明確に加えた、今後の創作の方向性をはっきりさせてくれるものになった。
ほんの2年くらい前まで、どうにも、芯が通らなくてウロウロしてたのに。
説明もできないし、自信もない。
多くの人がいいと言うものがいいと思えない自分の感覚が、なんとも、場違いな感じがして。
描くものは制御できないし。
人からすすめられることは、ことごとくできないし。
自分でも、ホントに、どうしたもんか…と思っていた。
かと言って、すでに退路はないので、前に出るしかない。
そうやって、前に出続けてきたら。
その先に、こんなことが待っていた。
やり続けてきたから、それに出会えた。
私の場合、この道を「好き」と言い切れない複雑さってのは、常にある。
これが本当に好きでやってきたことなのか。
どうにも、何かに制御されているような感覚があり、その証拠みたいな出来事も多々身近に起こるし。
通路をだんだん狭められて、あらかじめ決められているポイントへと追い立てられてるだけなんじゃないのか。
だから、「絵がお好きなんですね」なんて言われると、どうにも、答えが鈍る。
でも、今はようやく、それら経路の不自然さの数々を、不問にしてもいい気分になった。
ここからが、次のステップだ。