なくてはならない、度が過ぎてはならない…という難しさ「問題提起と悪口/疑問と猜疑」
教育問題漫画家の眞蔵 修平さん。
注目しているブロガーさんでもある。
眞蔵さんが、こんなツイートをしていた。
「悪口」と「問題提起」の境界は明確にしておかないと、「悪口を言ってはいけない」という言葉のみで、何の進化もない組織が出来上がってしまう。その境界は、感情的か、そうでないかの違いか。しかし、感情に訴えない限り、人も組織も動かないという矛盾をはらんでいて。
— 眞蔵 修平 (@shyuhaymakura) 2016年5月15日
何らかの問題がそこにある。
それを改善していくことで、全体を向上させる。
そのためには、問題を把握しなくてはならないし。
問題が存在することを、知る必要がある。
そのきっかけは何か…と言えば。
やはり、「不具合を感じた人の意見」だと思う。
声を上げる人がいなければ、問題が存在することすら、わからない。
で…なぜ、「声を上げる」のか、と言えば。
そこに、はっきりした、「不満」や「不愉快」を感じるから…だろう。
感情がまず、あって。
それが発言となり、問題の存在が明らかになる。
そこから、どうしたらその不満や不愉快を解消できるのか…単に解消するだけでなく、より良くなるのかを考えて、施行していく。
その結果、改善されていく。
その繰り返し。
感情によって明らかになった問題を、感情を汲みつつそれに支配されずに理性的に分析考察して、実験検証していかなきゃならない。
その過程では、切り捨てるところをハッキリさせなくてはならない場面も出てくるし。
全方向に「都合が良い」などいう現実は、少なくともこの現世の仕組みにおいては、あり得ない。
だから、それを承知の上で行う必要があるので…感情に囚われないで実行する、ということが必要になる。
しかし、次の不満や不愉快は、感情から生まれてくる。
これ、「疑問を持つ」ことと「猜疑に陥る」という難しい線でも起きることだと思う。
理想的に見える仕組みに、疑問を持つことができなければ、それを更に改良していくことはできない。
けれど、感情に囚われたところで発生する「猜疑心」は、何ら建設的な結果はもたらさない。
以前に、ある人に、「疑問は持ってもいいし、聞けばいい。けれど疑うな」ということを、言ったことがある。
おかしいと思うことは、聞いてもらった方が良い。
こちらが気づいてないことも、たくさんあるからだ。
複数の目で見ることで、死角は減る。
けれど、「もしや自分は邪魔にされているのではないか」など、主として保身からくるような疑惑を育てて、それが猜疑心となると。
これは、始末に負えない。
建設的に、潰した方が良い問題の可能性を見つける…という働きができないどころか。
無駄に、摩擦を生み、雪崩のように信頼関係を損なう。
言葉にしてしまえば…特に、文字にしてしまえば。
どちらも、意味としては同じ。
だけど、根底に、致命的な違いがある。
大きな組織でなくても、人が2人以上集まれば、そういう問題はどうしても、出てくる。
人はそれぞれの価値観世界観によって動く。
それを、他人がコントロールすることはできない。
自分自身の、一人の人間の中ですらも。
時として、そういう離反が起きることがある。
どうだろう…私は、ほとんど全ての命術鑑定で、「相反する二極要素がある」と言われる。
だから、余計に…
もしかしたら、平均よりも高い割合で、自分内離反が起こっているのだろうか。
他の人のことは、わからない。
が、少なくとも、個人的な損得勘定や恨み辛みを土壌にして発芽した「問題意識」は、良い方へはいかないし、よい結果にも繋がらない。
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