モノサシとマトリョーシカ、そしてバラのトゲ
人は、みんな、自分の中にだけあるモノサシで生きている。
そのモノサシは、他人とは共有することができない。
だいたいこれくらい…という確認をしあうことはできても。
じゃあ、その「確認した」ことが、実際に相手の中にあるものそのものを取り込めたのか…っていったら。
それは違う。
そのもの、どころか。
大半は、そのものからは大きく離れて、全く別モノになっているだろう。
そして、時には(というか、これまた、大半は…)、自分自身の中のモノサシですらも、実際と自分認識が離れているわけだ。
自分と向き合う、とかいう表現は、私はあんまり好きじゃないのだが。
(というか、それを多用する層に対して、あまり良いイメージがない…というか)
向き合うことなくして、自分の中のモノサシをちゃんと識ることは、できない。
で。
これまた多くの場合で、ちゃんと識ってるつもりで、識ってない。
(私も同じ。<つもり>でいるだけ…ということが実に多い)
逃げずにやっている、と思っていても、意外とそんなことはなくて。
そのこと自体は、本能的に防衛しようとするようにできてるので、無理もないことではある。
あるけれど。
人間には意志があり、それはいつ使われるものか、と言えば。
やっぱり、「譲れない一線」のために踏みとどまる…というような場合じゃないだろうか。
でも。
「自分の、譲れない一線」っていうものが何なのか。
本当に、把握できているのか?
…と、ね。
どこまでいっても、入れ子入れ子…のマトリョーシカみたいなもので。
タマネギみたいなもので。
合わせ鏡のようなもので。
自分と自分のにらみ合いというのは、他人からはうかがい知れないだけに、淡々としているようで消耗戦でもある。
自分VS外の世界
そんな構図で、爪や牙を研いでいるうちは、もしかしたら、本当にはマトリョーシカを開けてなどいないのかも…知れないな。
…なーんて。
思うことが、ありました。
久屋大通公園フラリエのバラ。
トゲ、すごいよねえ。
こんな武器を標準装備しているんですよね。
花は小粒でカワイイのにね。