他人には意味のわからない、不要でもあるつぶやき
久しぶりに、自分がどういう風に記憶を格納しているか
(と、感じているか)
などの、マニアックなことを文章にする機会を持った。
というか、そういう話題になったので、いろいろ芋蔓式に思い出したことを振り返りながらメモってみた、というところ。
こんな話は、ほとんどの人には、「はあ?意味わからん」とか「頭おかしいんじゃないの?」とかいう反応をされる。
けれど、これが楽しいんだな~(笑)
確かに、頭がおかしい、というのは、その通りだと思うしね。
小学生の頃から、
「自分がこの目で見ているこの風景は、自分以外の人にどう見えているのかなんて、誰にもわからないし、自分自身にすらわからない」
なーんてことを、日々、考えていた。
私が言う赤と、あの子が言ってる赤は、違うかも知れない。
そして、十中八九、違うのだ。
本当に、違う。
だったら、一体何が、本当のことなんだ?
まあ、そんなことばっかり考えてる子だったのだ。
そういうのが、だんだん、物書きのネタになっていった。
絵は、ある程度、多くの人に共通のモノとして提示できるという側面が大きいやり方なんだな、とも、思うようになった。
解釈はそれぞれ違うし、人がどう解釈するかコントロールはできないし。
強制もできないし。
そもそも、自分が思っていたことと、人が思うことが、どの程度どう違うのかってことを確認のしようもないのだし。
ってことは、もう、どう違おうと構わないと思うしかないよね。
…みたいなことを、確か、小学5年生くらいの時に考えたのを覚えている。
中学一年の時にすごく仲良くなった子が、また、変わった人で。
(まあ、当たり前といえば、当たり前…)
私は彼女に、いろんな「称号」をもらった。
その中の一つが、
「ひろちゃん(なんて呼ばれ方はしてなかったけど、そこはナイショ)は、中が鏡張りのボールみたいな人」
ってのが、ある。
どういう意味か、っていうと。
内側が鏡張り=内側に入っちゃったら、どんな攻撃を繰り出しても、全部跳ね返ってきてしまう=中に入ることさえできれば、中に入った人はすごい修行ができる
(あんたは悟空かって……www)
そして、外側からしか見られない人には、全く正体がわからない。
そういう、意味。
そんな表現をする中学生と、多くの時間一緒にいて、不可知論みたいなヘンな会話をしてたのだから。
まあ、頭がおかしい子ども達だ。
その子は、たぶん、内側に入ってしまって、必要以上に修行してしまった…と、思う。
その後、いろんなことがあった。
今でも、よく当時の会話を思い出す。
もちろん、私は「どんな攻撃も跳ね返す」ほどの精度も耐久性もないので。
期待に添えたことは、あんまりなかったけど。
ただ、私の側は、私達の会話に同席してしまった他の女の子達に、何を話しているのかを例え話で説明する、という技術を磨かせてもらった。
その技術は、ずっと役に立っている。
そんな十代から二十代前半を過ごしてきたのだけども。
これまた不思議なことに、案外と、定期的に、そういう話に付き合ってくれる…または、向こうがそういう話に飢えていたっぽい人と出会うのだな。
天使描き始めた頃にも、そういう人達がまわりにいたことがあった。
十代の頃よりも柔軟性に欠けてきていたので、関係性が良好でいられた時期は短かったが。
今思えば、ホントに、特殊な考え方感じ方をする人と、繰り返し出会ってきたものだ。
おかげで、倦むことなく、今まで生きてこられた。
今日のメモは、かなり、手前の浅いところの話だったけど。
私には、至って普通の、特に特殊でもなんでもない平凡な話の範疇。
言語にすると、フクザツな感じに見えるだけで、特にフクザツなことでもない。
ただし、しゃべる相手を選ばないと、ちょっと後でやっかいなことになるかも。
そして、こういう話の弊害は、人間らしい感情とか感性の領域が、遠くなりがちなことだ。
逆に感情に溺れっぱなしになってた人にも出会ってきたけど。
当時は、なんでそうなるのか、本気で不思議だったけど。
今は、単に作用する向きの問題だったんだ、ということだとわかる。
不思議じゃない?
なんで、人間は、こういうカタチしているんだろうね。
こういうカタチじゃなくたっていいのに。
でも、このカタチを留めていられなくなった存在は、人間とは認識されなくなるのだよね。
危ないので、鞘に収めて包んで縛って、収納するとしましょうか。