そもそもの諸悪の根源は間違った刷り込みと恐れでありジャッジではない【ジャッジ=悪というジャッジの害悪】
とある会話を傍聴してて思ったことメモ。
ジャッジをするとかしないとか。
それが良くないとか、しないでいると楽なんだとか。
その方が平穏だとか。
あのですね…
そもそも、「ジャッジする」ことと、「よい、よくない」や「楽でいられる、いられない」「心が平穏か不穏か」ってことは、
一切関係ない、別の話
ですよ。
「ジャッジ」って言葉もそもそも、私は好きじゃないんだけどね。
判断するってことでしょ、結局。
判断することって、生きていく上では、必須ですよ。
右へ行くのか左へ行くのかを決める…っていうレベルの話だよ。
相手の言うことを聞く(取り入れる)か、聞かない(取り入れない)か選ぶ、というレベルですよ。
そこには、最初から、誰の責任だとか、よいのか悪いのかとか、楽か苦しいかとか、平穏か不安かとか、そんなことは、関係ないの。
判断をした。
その結果が、たまたま「よい目が出た」「期待値を上回るよいことがあった」「楽になれた」「どこに責任があったのかハッキリした」などの現象として現れる…というだけのことなの。
そこに、その結果を受けての「感情」が絡みついてるから、「あの時の判断のせいで」みたいな記憶になっているだけ。
起きてきた現象への感情を、判断するしないへの感情とごっちゃにしてるだけの話だよ。
ジャッジするってことに過剰な反応をするのは、そこに、
「いつかのあの日、経験したことへの感情」
が、こじれてるだけなんだよ。
判断すること、ジャッジすること。
それそのものは、その感情とは関係ない。
今日何食べる?
明日何時に会う?
来月どこ行く?
そういうのを決めていくことそのものが、判断の連続。
ジャッジをしないで生きていける人間など、いない。
そこに、無駄で過剰に感情を絡めるかどうか、というだけの、単純なこと。
隣のブースにいた人達が、スピより心理学かじってる人達だったぽくて。
もうずっと、ジャッジがよくないの、しないでいれば楽になれるの、天に預けるのと、そんな話。
空き時間、カフェで調べ物しながらノート書いていて、どうしても耳に入る。
4人組で、一人の人に集中的に、他の三人がかわるがわる、そんな話をし続ける。
堂々巡りで、何一つ解決もしなければ、どこにも行き着かない話。
「苦しいのはジャッジするから」
その刷り込みこそが、諸悪の根源だっつーの。
その、意味不明な正義感こそが、ヘンなジャッジで本来の意味をゆがめてるんだよ。
そんなことを3対1で集中説法すること自体が、そもそも「ジャッジされる」ことではないのかね?
ジャッジしちゃいけない、というジャッジを人に強制して、その人が楽になるとでも?
自分の恨みを人で晴らそうとするのは許されるのかい?
嫉みも恨みも、嫌悪も、感じる権利が、誰にでもあるんだよ。
人に寄り添うとか、共感するとか、そういうことが大好物なら、ジャッジを責めてないで今こそ寄り添ったり共感したり、すりゃいいのに。
気分悪かったので、まだ中途半端な時間だったけど席立ちました。