はじめにものがたりありき…………という原点を考える
冒頭の言葉を、今は完全否定することができません。 でも思うのは、「ものがたり」がないのではなく、「ものがたり」を語っていないだけ。地方で暮らす人たちも、職人さんも。そう、日本全国にはたくさんの素晴らしいものがたりがあります。
日本人は「ものづくり」は得意だけど、「ものがたり」が聞こえてこない - 自分の仕事は、自分でつくる
昨日の記事 ↓
これを上げた後で、冒頭に引用した記事を、拝見しました。
語るということを、手抜きしたら、よくない。
それは、思う。
冒頭の記事をFacebookにシェアしたときに、こんなコメントを付けて投稿しました。
私の原点は、「ものがたりありき」だったんだよ。
だから、本当は、ちゃんと、絵を語れるはずなんだよ。
言語に変換できない領域に行っちゃってる部分を、言語に変換できる領域に移動させればいいんだけどね。
というか、そういう設定だという前提を、作っちゃうのがいいのか……
ああ、またワケのわからない呟きになってきた…
「はじめに、ものがたりありき」
というのが、私の絵です。
その「ものがたり」というのは、何もまとまったストーリーになった叙事詩だ、ということではなくて。
「絵」として現れた、その「なにがしか」は、そのカタチとして出てくる理由があって。
それは、絵に描かれた対象の持つ「ものがたり」なのであって。
それは、描き手である「私」と感覚を一部共有する…というか、「ものがたり側が、描き手である人間の一部を共用する」っていう方が、より、近い感じなのだけども。
今のところ、私は、描く時にはそれを皮膚感覚として感じることはできるけど、それ以上の領域である
「人間である私の、言語を司る領域」
にまで引っ張ってくることが、極めて困難である---
と、いうこと…なんですよ。
すみません、言い回しがなんか、フクザツで。
できる限り特定しようとすると、こういうことになる。
でも、そんな語り口で「ものがたり」は語れない。
そうなの。
冒頭に引用/リンクした記事に書かれている通り。
ものがたりは、無いのではなく、語れない。
語れないけれど。
それを、語る必要も、あるのだよね。
龍という生き物は、こういうもの…と。
それは一例だけど。
「言語に置き換えたとたん、本質からズレが生じる」
という、その溝を、いかにして、最小限に留めるか…と。
いや…なんか、それも違うかな。
溝を小さく…というよりも。
英語を意訳するようにして、「本来伝えたいことを、より、うまくイメージさせられるような表現への変換」っていうのが、必要なんだな、たぶん。
そのために、セリフを紡ぎ出すことが必要なら、そうした方がよいのだろうし。
物語的な文章を付け加える方がよいのなら、そうした方がよいだろう。
絵巻物を描きたい、というのは、以前からあるのだけど。
一枚絵も、そういう方向に、イメージだけでも、運んでいった方が、いいのかも知れない。
まあ…アレだ。
神を描いた絵に、なんかセリフ的な文言を加える…という「カタチ」に抵抗があるんだよね。
ほら…「●●さまからのメッセージです」みたいな雰囲気になりやすいから。
それが、イヤなんだよね。
けれども、そういうのも、一個人の「勝手な私見」ではあるし。
と、そういうところまで考えて、ふと、閃いた。
風刺絵のようなものなら、私は、好きだ。
前に遊んでみた、こういうのとか。
あんまり深刻っぽく考えず、なんかこんな軽いノリでもって「セリフ」とか「ト書き」とかを付けるようにしたら、案外、すらっといくのかも…ね。