旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

ごくごくごくごく一握りの、変人中の変人にだけ必要な概念と、現状

この記事は、たぶん、ごくごくごく一握りな変な人にしか通じない/必要がない内容です。

自分のための覚え書きであり、ごくごくごく一部の人へ「現状を開示する」ためのものです。

愉快な内容ではないので、スルーを推奨します。

 

 

 

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ここ半月ほどの間に、ちょっとした「見方が変わった」とか「捉え方が変わった」ことが、いくつかある。

どれも、抽象的なことで、書くのはすごく難しいことばかり。

 

で、無理に言語に変換してみても、どうにもズレたことしか書けないので、なかなか筆も進まずにいた。

 

 

実は今、「絵とかモノ作り以外のこと」で、やってみたいような気がしてきていることがある。

まだ具体的に書くまでの気持ちにはなれないのだけど。

それは、ずっと昔には、表側で「こうしたい」と言ってたことがある…っていうことだったりもする。

それを具現化するハウツーというのは、まだ、見えて来てないのだけどね。

 

 

【そば打ち体験や陶芸体験はエクスマではない】 

この記事を読んで、また、そのことを考えていた。

 

私、今すでに、「絵を商品にするっていうことは、ひとまず外す」という結論を出している。

売らないという意味ではなく、販促活動の対象から外すという意味。

神絵はどう考えても商品ではないので。

 

私がずっと変わらずやり続けてきたこと…というのは、

 

「光を表現する」

 

ことだった。

 

光、よりは、「灯火」と言う方がしっくりくる。

 

あかり

 

カンテラでも、提灯でも、松明でも、かがり火でも良い。

でも、灯台ではない。

 

 

なぜ、灯台ではないのか。

 

それは、「人が一人一人、違うカタチのものを持っていて、私が表現したい/提供したいのは、そういうもの」だから。

 

灯台のように、一度建てたらそのままの姿で長く不特定多数の人の目に触れ続ける…というのとは、ちょっと違うのだ。

 

 

だとすると。

私が提供する「体験」は、どんなものになるのか。

 

それが、「絵やモノ作りとは違う、やってみたいこと」。

もちろん、絵やモノ作りは、関わりがあるのだけど。

作品や製品を商品にするのとは、ちょっと違うのだ。

 

 

かさこ塾京都に行って感じたこと、考えたことで、けっこうイイ具合になってきてたのだけども。

よし、こうだ!というところまでになるには、もう少し時間が必要かな。

 

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上の「----で区切った部分」を書いて、なんとなく下書きに突っ込んであったこの記事。

寝かせている間に、ちょっと…というか、かなり、煮詰めた部分が現れた。

 

カラメルソースができたかも、っていうくらいに、とろ火にかけたな、っていう気分。

さらに、本日そこに、なかなか予想外な味を引き出すための隠し技を投入された感じ。

 

 

私の「抵抗」を、簡潔な文言にまとめてくれた友人に感謝。

 

 

私の抵抗とは、

「どうにも、ムカつく。選択肢が無いこと、それを消したのは自分自身であること、そんなのイヤっていうくらいに承知してて、なおかつ、ムカついてしょうがない」

という、こと。

 

人に言っても、なぜムカつくのか、なかなか理解されない点でもある。

 

 

神に、「うるせー!指図すんじゃねえ~!」と、つい、言いたくなる。

 

自分が、あることを「よし、これでいこう」と思った時。

その手前の段階から、すでに手札にはそれに必要なカードが全て配られている。

いつも、そうだ。

本来、そういうことは「ラッキー」とか「ギフトだ」とか、喜ぶべきことなのだ。

けれど、私は、そういうことにイチイチ、腹が立つ。

 

くそー、なんでやねん?!

 

って、思ってしまう。

 

自分で体験してきて、感じて、考えて、選んでいるのだ。

なのに。

全部全部、もとから決まってたことであるかのように、あらかじめカードが手元に来てる。

 

いや、決められてるんだよ。

決めたのは、自分なんだよ。

今のこの石頭の私ではないところにいる、私。

 

そして、それが、もう、どうにもこうにも疑う余地がないってことがわかっちゃってる…そのこと自体に、腹が立つんだよねえ。

 

 

神がナンボのもんじゃい。

 

とかね、思っちゃうの。

 

神の先には…神の向こうには、もっと大きな、神の神がいるんだよ。

もちろん、そんなの知覚も感知もできないけども。

でも、そうなの。

 

そんでもって、その神の神にも、その先の神がいる。

 

私が描くことができる程度のところにいる神たちに、私が何を決められなきゃならんのだ?!…とか、思っちゃうの。

 

不遜? そうかもね。

でも、そうなの。

 

 

友人は、そういう私の感覚を

「イエスを売ったユダ、ブッダを殺したデーヴァダッタ…それに似た感覚」

と、言った。

 

近くに居すぎるからだ。

密着しすぎているから。

 

この選択に別の選択肢は存在しない、ということを決めてしまってきてる自分…そういうものとも、多分、近すぎるんだろう。

(だからね、過去世記憶なんて、あったらメンドクサイだけってこともあるよ、って思うよ)

(私は、記憶持ってるっていうほどは知らないけど、もうこの、いかんともしがたい感覚は、今のこの人生に始まったものだと言うには、あまりにあまりなので)

 

 

それは、師を殺したいという感覚だ…と。

 

 

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いやいや、そんな物騒な話と、その上の段落に書いてある「体験を売る」話は、一体どう関係あるんだ?

 

って、きっと、多くの人は思うだろう。

 

でも、あるの。

 

このムカつく感じが消えないと、なかなか、踏み出せないところなの。

 

 

 

そして、その感覚は、自分の意識をちょっとだけズラせば、カンタンにできることだ。

 

だから、なんかそれも、シャクにさわる。

 

 

 

そうは言っても。

こういうことを文言に変換して書けるようになってる段階で、すでにほぼ解消の方向に向かっているものだけどね。

 

 

友人には、腹は立ちません。

 

 翻訳してくれる人に、なんで腹立てなきゃならんのだ?

 

 

そう。

彼の言う通り。

 

「そんな、向こうの向こうの世界なんて、一体誰の何に役に立つ?」

 

ほんと、その通り。

 

そういうのは、ごくごくごくごく限られたエリアにしか住めない変人だけが必要とすりゃあ、それでいいことだ。

まあ、たまに、その友人みたいな「ホントの変人」が登場するから、面白い人生になってるわけだけし。

そんなのがしょっちゅう、ゴロゴロしてたら、それはそれでどうかと思う。

 

 

あ…先日、八坂さんでやってきたあの感じ…。

「魔法使いるか」いわくの、かつて嫌いだったとある神についての私の意識をスサおっちゃんが説教してる…とのことだが。

ああ、なるほど……そういう意味ね。

と、急に腑に落ちてしまった。

 

 

 

赤信号も黄信号も、ハリボテみたいなもんなんだよね。

カタチだけはそこにあるけど、回線はつながってなくて機能しないモノでしかない。

青信号、一択のみしか、そこには存在しない。

あいつら(神)と付き合い続ける、その一択。

 

見えない聞こえない0霊感なのになあ。

 

絵描きセンサーに全部注ぎ込んだ設計になっちゃってるからね。

 

 

たぶん。

この、なんとも腹立たしい感覚も、もう後少し…あといくつか、足場を移ったら、今みたいなグツグツ感は消えるのかな…という気も、している。

 

なくなることは、ないと思うけど。

内側に引っ込む時は、来る。

 

本来、こんなことは、公に見える場に書き散らす内容ではないしね。

 

この感じは、ある意味、エディプスコンプレックスの変種なのかも知れないな。

 

子どもは成長すればするほど、母親が勝手なルールを自分に与えているのではなく、もっと大きなルールに従っている、父親の意向や「みんな」言動を尊重して行動している、と感じるようになるだろう。それによって、子どもは「みんな」の視点、母親以外の第三者の視点を意識できるようになり、他の人々の目に自分はどう映っているのか、みんなから見たら自分のふるまいはおかしくないか、といったことが意識されるようになってくる。  こうして、「みんな」から見ても正しいと思えるふるまいや行動を身につけ、そうした社会的なルールが自分の行動規範となる。このように社会性が形成されることこそ、エディプス・コンプレックスの本質なのである。

10. エディプス・コンプレックスの本質 | 山竹伸二の心理学サイト

 

 


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