カタチを与えようとするように生まれついてしまった人間
私は、自分のやっていることが「二次創作」の部類だと思っている。
すでに在る対象を、自分流の表現方法で可視化しているにすぎない。
オリジナルの作品をネタに、自分の好きな世界を独自に展開してるに、すぎない。
だから、芸術家ではない。
アーティスト、という表現も使いたくない。
けど、SNSなどのプロフ欄にある選択式のカテゴリには、「アーティスト」しか選べない場合もあって、そういう時は仕方なく、それを選ぶ。
自営業とか自由業という設定があれば、それを選んでいる。
元ネタは普遍的に在るものであり。
誰でも、自由に、それを定義してよい。
どの神をどういう性格付けでイメージするか。
姿はどんな感じか。
どんな振る舞いをし、どんなコトバ遣いをするか。
そういうものは、全て、誰でも好きなようにイメージしても、よい。
文献などにある程度資料がある場合もあるし。
皆無に近い場合もある。
なぜか多くの人が共通のイメージを抱いている…という場合もあるし。
なぜか自分だけが、なんか違うイメージを抱いている…という場合もある。
どれも間違いではなく、どれも間違い。
その「見えない存在」本体そのものではない以上、どれもがホンモノではない。
そんな掴み所のない存在が先にあって、それにどうにかしてカタチを与えてみようとしている。
そんな、「そういう風に生まれついてしまった人間」の悪あがき。
自分のやってることを、私は、そういう風にとらえている。
太古の昔から、絵描き担当者はみんな、それをやってきた。
壁画に水牛を描いた人は、描いたものを「ツノのある大きな動物」と思わずに、「神」をかたどったと思っている。
自分たちの生活に恵をもたらしてくれる存在=神そのものだ。
文字を持たない民族の中には、絵は残している場合がある。
造形物を残している場合も、ある。
文字で記すか。
絵で描くか。
像を造るか。
いずれかで記録する…というのは、もう、人間という種族の本能に近いところに刻まれている「やらずにはいられない」衝動だ。
音で記すという手段もある。
舞や武術の中で伝えている時もある。
特別な選ばれた人がそれをするのではなく。
そういうことをしている人の中に、人離れした達人が出てくる…ということだ。
けど、そんな人ほど、自分のしていることを見極めようとする姿勢を保っている。
彼らの前にあるのは、「別の同業者」などではなく、天だけだから。
神を表す人の中には、時に、不遜な思いに支配される人がいるもんだ。
自分のものだけがホンモノ。
唯一、神を顕現できる存在。
そんな風に。
神(と思う存在)に、どう言われたか知らないし。
周囲にいる人達に、どう言われたかも知らない。
でも、私は、そうなれる人は、ある意味、すごく幸せではないかと思う。
「神はこういう姿をしてる」ことを実際に描き出すということが、そんなに「偉い」ことだと思えるのだから。
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