千年後、二千年後、一万年後の景色
真夏の午後。
海を見下ろす山沿いの道。
両脇を高い木に覆われた中腹の道。
平野が遠くに見える、山裾の道。
空と景色が美しくて、何回往復しても眺めはよい。
その道を通って行く場所で会う人達や、起こること。
それが、嬉しいこと、よいこと、楽しいこと、幸せなことなので、至る道筋まで気持ちよい…っていうのは、あると思う。
しかし…
今日の帰路は、ちょっと、別の回路が開いてたみたいで。
伊吹山の裾野を通る時、なんかもう、なんとも言えない寂寥感みたいなものが沸いて出た。
米原側から見た山の、ひどい変形の有様。
石灰岩の採掘のために削り取られた山。
確かに、今まで、自家用車でもバスでも、あの景色が見えるところを通る度に、なんだかなあ~と感じてはいたのだけども。
今日のは、一体何だったんだと思うくらいの強い感覚だった。
登ったことないし、特別登りたくもない。
ただ、日々、毎日、遠目に必ず見る山だ、というだけの山。
愛知県側からは、あの削られたところは見えない。
うちからは、山は、鈴鹿山脈も近くに見える。
でも、不思議に、他の山並みには感じない、ある種の「モニュメント」的な思いがある雄姿。
人間は、山の姿さえ変えてしまうんだな…と、なんか、すごく、強く思った。
よく考えてみたら。
山を削り取って姿を変える…どころか。
地形は、大きく、変えられているんだよね。
自然の堆積や浸食、隆起陥没ではなく。
人為的に、地形はどんどん、変わっている。
人間の暮らしは便利になって、速く移動できるようになって。
住む土地も、広くなって。
そうして、今の生活がある。
今日通った道だって、通すためには地形を変えているわけだし。
たかだか数時間で、県境をいくつも越えて、太平洋側と日本海側をラクに行き来できる恩恵を受けている。
千年後の人たちは、どういう景色の中で暮らしているのかな~。
彼らは、今の私達「人類」の、直接の子孫達…なのかなあ。
二千年後は?
一万年後は?
「ぼくら人類が滅びた後でも、これは残るんだよ」
陶器で作る仏像、というものについて、そんな言葉を聞いてきたから、余計にそういうことを感じてしまったのかもね。
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