楽しい、っていうこと そして、まだ表に出られない思い
出先で休憩中に、いつも拝見しているブロガーさんの記事をいつものように読み始めまして。
なんと、うっかり、泣きそうになってしまいました。
家で落ち着いて、ゆっくりもう一回読んで、それから自分の思ったことを書こう…ということで、そそくさと画面を閉じました。
取り上げられていた人物(筆者のお父上)の職業が絵描きさんだったから、余計に「ド直球」で食らったんだと思います。
そこで描写されるお姿が、本当に、絵やモノ作りを楽しんでらっしゃったのだな、ということが伝わる記事です。
こんな風に、多くの人に「クリエイトの楽しさ」を伝えていけて、関わった人のその後に波紋を投じられる…という生き方。
そして、それを息子さんがしっかり、引き継いでいるってこと。
なんと素晴らしい。
クリエイティブなことは、楽しいです。
それはもう、本当に、楽しい。
ある意味中毒になるほど。
そして、それがあまりにも身近になりすぎてしまうと…
近すぎて、よくわからなくなってくる…そういうこともある。
楽しいよ、と断言できている今ですらも。
私は、時に、それがわからなくなるんですよ。
手が届かない、はるか彼方で、すごい引力をもって光っている偉大なる先人達や若い人達。
それと比較するというのとは、また、ちょっと違うのだけども。
この道は、私には、ストレスも同時に大きくかかる道。
楽しさの感覚を消してしまうくらいに、重さやつらさも、たっぷりと、ある。
もちろん、どの道を選んでも、どんな人でも、そういうことはある…のだけれどね。
自分を表現することは、楽しいことです。
その中で遭遇するかも知れない、あまり見たくない自分というものもあるでしょう。
けれど、一時は辛くても、そういうものと出会う旅も、楽しいものです。
うん、そう。
一時辛くても、未知に出会うことそのものが、楽しい旅路。
自分の中で噛み合わないこと、溝になっていること、齟齬があること。
そんな種々の「一時的には辛いようなこと」に焦点を当ててばかりいると、肝心なことが見えなくなってしまう。
もっと、単純でいい。
表現する術を持つ人間として生まれて来て。
この手も、この目も、思考や感覚も、それを造形する力を携えて、この世に出てきた。
携えてくることを、許された。
もう一度、今生、その道を往くことを、選んで来た。
ここのところずっと、たびたび念頭に浮かんでくるコトが、この記事でかちっと一つにまとまった…そんな気がしました。
実は。
今までやってきたことを、ある意味「放棄」するような発想。
…かも、知れないこと。
それが、ずっと、頭の中にあるのです。
まだ、口に出せない、文章にもできない。
それでも無視できなくなってきている。
ヤバイかも。
楽しむ、ということは、私にはずっと、「どういうこと?」って感じることだったんです。
楽しいこと、楽しめること、楽しくなること。
わからなかった。
ずいぶん、長い間、このことを考えていました。
そして、ある時ふと、
「感じ方の問題」だということに、気がついたんですね。
そこらへんの悶々具合は、以前のアメブロ記事にいくつか痕跡が残っています。
もっとも、バックボーンではあるけども、今回のこの記事の本題とはあまり関係はないので、興味ある方だけ見てやってください。
これとか。
これとか。
上の記事には、手書きのグラフと、イメージ図があるのですけども。
それを書いた時に、
「ああ、楽しいことがわからないわけじゃなく、どこをとらえてるか、という話だったのか」
と思ったわけです。
あの頃のテーマが、いきなり時空を飛んで降って来た…そんな感覚にもなった午後のひとときでした。
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