旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

北風と太陽の寓話ふたたび--もう太陽を探してる場合じゃない

かなり、意味のわからないであろう、マイワールドなことを書いてる記事なので、ヒマな方か、変わり者な方以外は、スルーをオススメします(笑)

 

 

ことあるごとに念頭にのぼってくるもの…というのがいくつかあるのだけども。

寓話というカテゴリの中にあるもののうち、最も頻繁に浮上してくるのが、「北風と太陽」の物語だ。

知らない方もいらっしゃる?のかな?

イソップ童話のなかの一つ。

北風と太陽 - Wikipedia

 

有名な「北風VS太陽、旅人の服脱がそう競争」の前に、「旅人の帽子を脱がそう競争」という第一幕があって、その時は北風に軍配があがっている…ということです。

なんで、後半だけが有名なのか知らんけど。

明確な勝者がいないと気が済まない人達がいて、それが、北風に勝たせるのをヨシとしなかった…のかねえ。

なんか、作為を感じて気分悪いね。

 

 

北風と太陽は、どうしてそんな遊びをしようと思ったのかな…という不思議。

おとぎ話にそんな理屈を求めても仕方ないってか?

確かにそうだけど。

でも、その時書いた記事の焦点は、そのヘンな疑問ではなく。

そこから連想した、「自分という人間がとってきた立ち位置」のこと。

 

少し前の記事だけど、ここに書いている。

ameblo.jp

 

自分が「最後の詰め」を担当するという意識が、ない。

最初から「失敗する」ことが前提の…むしろ、「失敗することが成功」みたいな、変な立ち位置。

 

それでいいのか自分?

いいわけないやん。

 

…というのが、上にリンクした記事。

 

 

今日、以前からFacebook繋がりはあって、電話ではお話したことがある…という方と、初めてお会いしてランチご一緒した。

その方も、どうも「後ろの見えないヒトらのセッティング」繋がりくさいと前から思ってたんだけど。

どうやら間違いないらしいと、今日は確信した。

 

会話の中で、上に書いたような「第二存在で在りたがるクセ」みたいなものを、サクッと水を向けられて。

 

今の私は、その「誰かをよく見せるための落としどころを探そうとする」クセを、ちょっと変則的な方向に向けていたわけね。

上の記事を書いた頃に、そういうクセがあるということは、自覚はできていたのだけども。

おかげさまで?より、わかりにくい、自分もカンタンに騙せるような便利なやり方で、最後の詰めをしなくてもよい立ち位置をキープするようになってた…という。

 

それを、別の話題から、ほじくり出されたのでした。

 

引き立てようとする相手が違う、とな。

見るべきは、上ではない、とな。

 

上見てたらば、もう、そこには雲と空と宇宙しか、ないよ…とな。

 

「ひろちゃんは山の頂上にいるんだから。山の頂上では、迷ったところでどこにも行けないんだよ、少なくとも今生では(笑)」

 

結果をより印象的にするための太陽なんて、もう、探してる場合じゃないのだ。

 

北風と太陽が、勝手にいろいろなものを賭けて遊んでいるのを、ほっといて。

そのどちらでもない私は、自分の領域の中にいる、見るべきモノを、見る。

 

 

 

………メンドクサ………

 

 

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雲の中に龍がいる。

ホントにいるのかどうかは問題じゃなく、そう見えるから、そう思う。

ホントにいるのかどうかを実際に認識できるかどうかは、問題じゃない。

そう見える、という人が他にもいて、それならその同じ視覚を持つ人を見て、世界を少しでも美しくしていければ、いい。

…そういう、こと。

 

 

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