北風と太陽の寓話ふたたび--もう太陽を探してる場合じゃない
かなり、意味のわからないであろう、マイワールドなことを書いてる記事なので、ヒマな方か、変わり者な方以外は、スルーをオススメします(笑)
ことあるごとに念頭にのぼってくるもの…というのがいくつかあるのだけども。
寓話というカテゴリの中にあるもののうち、最も頻繁に浮上してくるのが、「北風と太陽」の物語だ。
知らない方もいらっしゃる?のかな?
イソップ童話のなかの一つ。
有名な「北風VS太陽、旅人の服脱がそう競争」の前に、「旅人の帽子を脱がそう競争」という第一幕があって、その時は北風に軍配があがっている…ということです。
なんで、後半だけが有名なのか知らんけど。
明確な勝者がいないと気が済まない人達がいて、それが、北風に勝たせるのをヨシとしなかった…のかねえ。
なんか、作為を感じて気分悪いね。
北風と太陽は、どうしてそんな遊びをしようと思ったのかな…という不思議。
おとぎ話にそんな理屈を求めても仕方ないってか?
確かにそうだけど。
でも、その時書いた記事の焦点は、そのヘンな疑問ではなく。
そこから連想した、「自分という人間がとってきた立ち位置」のこと。
少し前の記事だけど、ここに書いている。
自分が「最後の詰め」を担当するという意識が、ない。
最初から「失敗する」ことが前提の…むしろ、「失敗することが成功」みたいな、変な立ち位置。
それでいいのか自分?
いいわけないやん。
…というのが、上にリンクした記事。
今日、以前からFacebook繋がりはあって、電話ではお話したことがある…という方と、初めてお会いしてランチご一緒した。
その方も、どうも「後ろの見えないヒトらのセッティング」繋がりくさいと前から思ってたんだけど。
どうやら間違いないらしいと、今日は確信した。
会話の中で、上に書いたような「第二存在で在りたがるクセ」みたいなものを、サクッと水を向けられて。
今の私は、その「誰かをよく見せるための落としどころを探そうとする」クセを、ちょっと変則的な方向に向けていたわけね。
上の記事を書いた頃に、そういうクセがあるということは、自覚はできていたのだけども。
おかげさまで?より、わかりにくい、自分もカンタンに騙せるような便利なやり方で、最後の詰めをしなくてもよい立ち位置をキープするようになってた…という。
それを、別の話題から、ほじくり出されたのでした。
引き立てようとする相手が違う、とな。
見るべきは、上ではない、とな。
上見てたらば、もう、そこには雲と空と宇宙しか、ないよ…とな。
「ひろちゃんは山の頂上にいるんだから。山の頂上では、迷ったところでどこにも行けないんだよ、少なくとも今生では(笑)」
結果をより印象的にするための太陽なんて、もう、探してる場合じゃないのだ。
北風と太陽が、勝手にいろいろなものを賭けて遊んでいるのを、ほっといて。
そのどちらでもない私は、自分の領域の中にいる、見るべきモノを、見る。
………メンドクサ………
雲の中に龍がいる。
ホントにいるのかどうかは問題じゃなく、そう見えるから、そう思う。
ホントにいるのかどうかを実際に認識できるかどうかは、問題じゃない。
そう見える、という人が他にもいて、それならその同じ視覚を持つ人を見て、世界を少しでも美しくしていければ、いい。
…そういう、こと。
【緋呂 公式サイト/Shop/SNSリンク集】
★外部サイトからも読者登録できます!→