緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

4日間の最大の成果 これからは、仏様も積極的に、作ります。

以下は、6月末の某日に、Facebookに呟いていた文章。

神は絵にする方が合う。
仏は像にする方が合う。
…そんな気がする昨今。
………だから、古い時代のものも、そうなってるのかな。

 

絵だけやってた頃はわからなかったことが、実にたくさんある。
回路が一つずつ開く感じで、面白い。

 

それにしても、己の技能がついてこないのが、実に残念だ。

 

 

今回、観音様を陶器の製品にするための原型制作を行った。

 

仏画は、どうにも、なかなか手が出なくて。

仏様は、私にはまだまだ遠い存在…でもあって。

 

けれど、粘土で立体を作るようになって、なんとなく、「その世界」が近づいてきた気がしていた。

 

絵よりも像。

平面よりも、立体。

 

描きこむことで作る陰影ではなく、陰影が生まれるように作るカタチ。

 

 

作った原型は、最後に手直しを入れてもらったことで、自分だけで作ったよりも何倍も、よい感じの像になったと思う。

まだお見せできないのが残念。

 

直してもらったものを見て、しみじみ、思った。

 

こういうものは、自分のために作るモノじゃない。

 

神さまは、そうでもない(場合による)のだけども。

仏様は、本当に、そう…自分の為の制作ではない。

 

私が好きかどうかとか、私が気に入るかどうかとか、私が得意かどうかとか。

一切、関係ない。

 

これは、芯から、「求められるため」のもので。

「求めている」誰かのためのもの。

 

見る角度で、表情が違う。

像の彫り込みが生む陰影と、照らし出す光が生む陰影。

 

 

 

仏画が苦手だったのは、どうしてか…というと。

制約が多いから。

 

様式とか、持物とか、型がきっちり決められていること。

それが、ものすごく細かく多岐にわたっていること。

 

それは、間違いなく、仏を正しく表すために規定されていった約束事ではあるのだけども…。

私自身には、どうしても、どこかで、「そんなの、ホントはどうでもよくないか?」っていう思いがあった。

○○観音、などの種別も、別に、どうでもよくないか?

 

 

今回、発注元のM社の担当さん(ということにしておく)であるKS氏に具体的にチェックしてもらいながら作って、最後はKS氏に手直しを入れてもらって作った原型。

その過程で、私の中にあった「ホントはどうでもよくないか?」という思いは、確定的になった。

 

そこに意義を見いだす人は、それでいいと思う。

本来、そういうものかも知れない。

 

私がバイブルのようにしている仏師コミックにも、仏像の儀軌(ギキ=仏像を制作する際に守らなければならない規定のこと)がいかに大事なものか書かれている。

人々が救いを求めたその先に生み出されてきた、時代時代の姿。

だからこそ、仏師は「正しい御仏の姿を彫るべきだ」と述べている。

(このコミックは本当の現役仏師の方が監修されている作品です)

 

ブッシメン!THE IMAGE MAKER(1) (イブニングKC)

ブッシメン!THE IMAGE MAKER(1) (イブニングKC)

 

 

 

でも。

私は、そういう意味での仏師ではないのだ。

 

もっと広い意味で、見えない世界を物質的に見せる者。

おのずと、大事にするものも、違ってくる。

 

 

私一人で完成する必要もなく。

私の名前が入らなくても、なにも問題はなく。

表に作者として出なくても、たいしたことではなく。

(出ないということではありません。たとえの話)

 

そんなことよりも、「作り出された像を見る人が、そこに何を映すか」ということが、よっぽど重要。

 

 

ずっと以前から、神様は要求が具体的で主張が強く、仏様は気づくのを待つ…と、感じてた。

神が動なら、仏は静。

神が生なら、仏は死。

はじまりと、おわり。

 

お宮参りは神社で、葬式は寺…という現象に端的に表れている気がする。

もちろん、それは、葬式仏教という常識の元で作られてきた観念ではあるのだけど。

その観念に縛られてない日本人を探す方が難しいのじゃないだろうか。

 

 

今回作った観音様と同シリーズとして、不動明王を依頼された。

こうしてほしい、という希望も、聞いた。

 

それは、不動明王という「記号」が表す姿を覆すような希望で。

それを聞いた時、上に上げたコミックに出てくる、主人公が最初に手がけることになった「フィギュア」の原型を、すぐに連想した。

 

 

仏師は「正しい御仏の姿を彫るべきだ」と述べたのは、主人公の亡き父親。

彼は、こうも、述べている。

  

儀軌ってのは

いわば一つの

目安----

職人ならば

遵守して当然だが

それは仏像の

本質とは違う

 

 では、何が本質か。

 

それは、「願い」だ。

仏を彫る…それは、誰かの願いと対話すること。

 

 

儀軌など無視してもよい、ということではなく。

それだけじゃない…ということ。

 

 

仏画は今まだ描きたい気にならないけれど。

粘土の造形は、私の手には合っていると思う。

 

仏教家でも、仏の専門家でも、修行の専門家でもない。

私は絵描きで、絵描きの感性と絵描きの目と絵描きの手しか、私にはない。

 

 

4日間の強硬制作工程の、一番大きな成果は、この感覚だったかもね。

これからは、仏様も積極的に作ります。

 

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 ほんの部分しか見せられないのだ。

 

 

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