人と人との理解/幻想/意図
私には何より重要なことが人に伝わりにくいのと同じように、私には心底どうでもいいことで、死ぬほど悩んでいる人もいる。結局、お互い理解しきることなんてできないのであって、「それでも理解しようとするかどうか」という話だ。そして、それをやりたいかどうかは、相手やその内容により左右される。
— 異界絵師 緋呂(ひろ) (@HIRO_eshi) 2015, 5月 28
そもそも、人間同士は、仮に肉親であっても「別の人間」なのだから、根本的に違う。
理解、というのも、人それぞれに「どういう状態になればそうなったか」という感覚は違うので、A氏はB氏を理解していると感じてても、B氏はA氏がまったくわからないと思ってる…なんて、普通に起こる。
そのズレが大きく出た時に、「裏切られた」と感じたり、「失望した」と感じたりするんだろうな、と思う。
以前、私には「尊敬」というのが大きな要素なのだ…ということを書いた。
尊敬できるかどうか、だと書いたけど、もっとちゃんと書くと
「尊敬したいんだよ、させろ!」
という欲求が強い、ということ。
それができないと、すごい怒りが沸く。
だけど、そんなことは相手には関係ないことなのであって、あくまでも自分の問題。
だって、その人はその人なりのことをやっているに過ぎない。
私がその人に対する期待値を高く持っていたか、どんどん高くしてしまった、っていうことに過ぎない。
それこそ「知らんがな」というやつだ。
そういう「自分よがり」な感覚の元で相手に何らかの働きかけをすると、おおむね、失敗する。
相手が、こちらが勝手に期待する方向に動き出すことは滅多となく
(そんなことがあれば、それは幸運だったとしか言いようがない)
こちらが作ってしまった溝がさらに深く広がり、ヘタしたら修復不能になる。
提案はする。
後は、見てるだけ。
今は私は、それが一番よい付き合い方なのかな…って、思っている。
そして、見てる以上の働きかけをするエネルギーを、自分のことに向ける。
そうすると、「いやいや、はじめから、相手にどうこうやってるほどの余裕なんか、自分にはなかったっしょ」というのが、よくわかる。
それでもガツンとブチ当たっていきたい…というほどの相手に出会ったら。
それこそ、ホンモノの幸運、奇跡的な出来事…なんじゃないのかな。
バリ取って、下地のジェッソを塗り塗り。しかしこれ、狐というより猫だよね。まあ、どっちでもよい。どっちも好き。面の台から自作したいな。
この面、6つもあるんだよね。
でも、楽しくなってきちゃって、6つじゃ足らんかも~。
3つ、白で下地塗りをしたけど、どうやって装飾しようかな~♪
あとの面は、他の色で下地塗りしてみよっかな~♪♪♪
もふもふとか、キラキラとか、つけてみちゃおうっかな~♪♪♪♪
いじり放題だ~い♪♪♪♪♪
なーんてね。
他人(自分以外の人、という意味で、家族でも他人)を、そんな風に装飾とか、変形とか…しちゃおうとしても、「勝手な幻想」が叶えられることは、まずない。
でも、自分が自分をどうするか…ということは、意図すれば叶えられるのさ。
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