「尊敬」が「縛り」に化ける時
記事タイトルを、ちょっとひねってみましたよ。
「どこが?!」というツッコミは飲み込んでおいてね(笑)
ブログスキル系のところで取り上げられてる感じのタイトル傾向をちょっと、意識してみた…というのが、「ひねり」なんだから(笑)
(だって、今までそういうことも全く考えないで書いてたもん~♪)
人間関係において重要なキーワード
さて。
対人関係の構築において、「尊敬できるかどうか」っていうことは、大事だと思います。
で、私自身にとっては、おそらく多くの人がそうである以上に、尊敬というキーワードは比重が重く、関係性の基礎の大部分を占めているかも、っていうくらいなのです。
尊敬できると感じているうちは、たとえその人が好きじゃなくても、つきあいたいと思う。
けれど、たとえ好きな相手でも、尊敬できないことが一定以上増えると、「好き」な気持ちよりも怒りが勝ってしまって、つきあいそのものを破壊したくなる。
重要すぎる時が危険
でも、最近になって、気がついてしまった。
「尊敬の念」という表現があるけれど。
まさしく、“念"…「強すぎるベクトルは、縛りになる」んだ…ってことに。
何を縛るって、もちろん、己を。
自由に動けなくなりかかった時。
今まで、そういう状況に自分がハマリこみそうになった時のことを振り返ってみると。
たいていの場合で、相手をすごく「尊敬していた瞬間」があって。
私の中にある、自分にも把握できてない地雷のどれかを踏んでしまったので、その念には大きな傷がついてしまった。
その傷の部位によっては、もはや私は、その人との関係を続けられないし、続けるべきでもない。
そこから先に行けなくなるから。
なんだけど…その「尊敬していた瞬間」の記憶があまりにも強固なために、地雷を踏んだのは相手ではなく自分だと、思ってしまうのですよ。
「悪いのは自分」病です。
決して、そうじゃないんだけど。
(もちろん、ホントに自分が悪いって時もある(笑)
読んでくださってるあなたにも、覚えがありませんか?
「いや、あの人がそんなことするわけない」と思い込もうとして、決断が鈍り、結果的に事態を悪化させるってこと。
それに似てる。
自分にとって重要な基準であればあるほどに、そこがズレたら致命的…というポイントで、相手が逸脱した時。
その時起こった事実を、ちゃんと正確に「事実として」認識していれば、どういう方向に行くにせよ決断は早くでき、修復も早い。
でも、念が自分を縛ってしまって、「よかった時の記憶」に頼って事実を見誤る。
ひとたび霧が晴れたなら、相手にせよ、状況にせよ、自分のことにせよ、ハッキリ見えるようになるのだけど。
念が、それを、曲げて見せる。
ああ…あの時も、あの相手も、そういうことだったんだな…
って、気がついてしまったわけなのです。
私には、それは「尊敬」です。
あなたには、何ですか?
愛とか、信頼とか、フィーリングが合うとか…いろいろ、あると思います。
それが自分を縛ってないか、時々、冷静に見るほうがいいのかも。
△ 聖観音
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