旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

大志を抱け、そして動け

以前、こんな記事を書いた。

 →【誇大妄想こそ進化の糧?!】

 

タイムスタンプを見ると、かなり昔の話だ。
この時、どうしてこういうことを思ったのか…ってのは、全然、思い出せない(笑)

が、こういうことを書いた、というのがこうやって残っているってのは、よいこと。

今見返すと、ちょっと違う感覚になる部分もそれなりには、ある。
でもまあ、当時の自分はそう思って感じてた…ということを振り返ることができるってのも、オツなもんです(笑)

 

 

そして、この画像は、2013年10月に書いた。

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原版は、人に送ってしまったので、手元にはない。
その頃のブログを振り返ると、ひたすら「筆文字ブーム」の時だな…ってのが、わかる(笑)

そして、人間関係のとある決断をした後の時期だった。
うん。

 

上の、誇大妄想の記事の終わりの方に

「まず、意志を使い、そのように発信し、そのように行う。」

って、書いている。
たぶん、その当時から今までの間、かなり、その通りにしてきた…ように思う。

結果として、今は私は、何かしたいという時に、悩むってことがほぼ、なくなった。
できるかどうか、やっていいのか…といったことは、ほぼ全く考えなくなった。

どうやったらできるか…ということは、考える。

どういう人となら、可能になるか…ということも、考える。


自信なんて、「あるからできる」って思うのは、「ないからできない」って思い込んでいる人だけ。

それが、今の私の結論。

 

死ぬまでに実現できなかったとしても、やろうと試みた「行動した事実」があれば、最後には「よかったな」と思える。
そう、信じるだけのこと。


………いや、信じるだけのこと…ってのも、違うな。

そのように、自分で決断するだけのこと…だ。
行動したから、良かったな…と、そうだったのだ、と決断する。
そうなるのだ、と決断する。

うん。

 

 


終了した4人展で、私は実に度々、思ったし、人に言ったり、書いたりしたことが

「まず、やろうか(^^)」

ということだった。

屁理屈、言い訳、そんなもんとっとと捨てて、動けよ。

…ということ。

 

もっと言うなら。

「一緒にやろうよ」っていうこと。

現実に一緒にやるんじゃなくてもいいんです。
なんか、ここで、そういうこと言ってたヤツがいるな…やってみる?みたいな感じで十分。

 


まーまー、小難しいことどうでもええやん。
まずは、こっちきて、そんで、そこに座って。
一緒になんか話すか、なんか書くかしようや。


そういうのを「会」として定期的にやりたい、とどこかに書いたコトも思い出した。


今も、そういうのをしたいと思う。

けれど、今したいのは、「そういう会」という枠ではない。


もっと日常的に。

 

もちろん、会としてやるのも、選択の一つ。
それはそれで、楽しいだろうし。
そういう場を設けることによって、だんだん習慣づく…というのは良いことだ。

 

そう。
昨日、ちょうど、話に出たのだよね。


人のヤル気を引き出したり、それをうまく焚きつける…っていうことがとっても上手い人がいる。
けれど、その人自身は、そうして引っ張り出した人達を直接、フォローすることはできない状況がある。

すると、どうなるか。

せっかく膨らんだ気持ちや、動きたくなってきた意欲や、好奇心…といった、現実の行動に結びつきやすい「気分」は、ほどなくして萎む。
そのままだと、100%に限りなく近い率で、萎み、やがては消えていく。


もったいない。


それは、フォローできないことが悪いわけではない。

また、萎んでいく側が悪いわけでもない。

ただ、「土壌ができあがってない」だけの話。

 

土壌改良というのは、根気も時間もエネルギーも必要になることだ。

そして、それは、概ね「接触回数や接触時間、その密度」に頼っている。


習慣づかないうちにフォローが行き届かなくなる…というのが、結局は「火が消えていく」要因。

 

そういう意味では、常に相手を刺激し続け、それも、少しくらいの時間が空いても記憶が薄れにくいほどに強烈な刺激を適切に送り出せる…ということが、重要になる。

 

まあ、そんなことを、話した。


たぶん、それがテーマになった話を、毎日のように思い、言い、書いたように思う。

 

どんなに緻密な妄想を組み立て、微に入り細をうがって「イメージング」したとしても。
現実に行動を起こさない限り、何も起こらない。

水、水、水、と念じて鮮明にイメージして、水が手元に湧いて出る…というのは。
はっきり言うと、この世界に生きている人間がとる手段ではない。

それだけじゃなく、実際に水を取りに行きグラスに注いでやれば、すぐに飲める。
手も洗える。

その、「取りに行く」ためには、動かなきゃ。
あるいは、「誰かに取りに行ってもらう」ように働きかけなきゃ。

 

大きなものをイメージするなら、それだけ、それに見合った大きな動きも必要になる。

一人でできないなら、誰かと組む。


どんな立派な理念を明文化しようとも。

どんなに素晴らしい理想を鮮明に描こうとも。

そこに向かって「何かをする」ステップなしには、何一つ、動きはしない。


その妄想は、やがて、消える。

それを人は都合良く「忘れる」とか「手放す」とかって、美化していくわけだ。

 

ま、それでもいいなら、それを続ければいいだけ…の話。

 

イヤなら、ひとまず何でもいいから、何か「その目的地」に向かって動いてみよう。

 

 

☆関連記事→【展示をしてみましょう】 こういう一歩も、いいもんですよ(^^)


ま。
こういうところで吠えてるうちは、まだまだ…なんだけどね(笑)


そんでもって、もともとは、私は、動くのに時間のかかるヤツで。
気が小さいので、そうそうでかい動きはしたくないヤツで。
屁理屈は腐るほど思いつくので、動かなくてもよい方向に固めるのは得意で(笑)


しかし、それでも。

できることってのは、あるもんなんです(^^)

 

 


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