旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

本来「教える」ことをやってはならない人

生徒が「できてる」かどうか判別できる講師ばかりじゃない…ってハナシを、少々。

 

最近は、人様のやってることをどうこう口挟みたくなるってことは、めっきり減っている私。

もともと以前から、知らないこと…というより、知ろうとしないことへの腹立ちみたいなものを感じることが多かったので、自分が認識していることが世界の全てである、という姿勢の人を見ると何か言いたくなってしまう方でした。

この数ヶ月を経て、最近では、それもその人が選んでいることだからいいじゃん別に…といった、ある種の諦めにも似た感覚の方が強くなってきてて。
成り行きはそれなりに遠巻きに見てるけど、意見したりはしない、ってことが度々あります。

だから、ブログにも、前ほどはあれがおかしいの、こっちがヘンだの…って記事は減ってるはず。
…たぶん。

なんだけど。
そういうことを感じなくなったわけではなくて。
どちらかというと、前よりもむしろ突き放した感覚になってきてます。
「そういう相手を選んで自ら行ったのは自分でしょ」
ってなもんですね。


一般的には、何かを教える立場にまでなるためには、そのジャンルにおいてそれなりの実績を積み、専門性が高まっており、未熟な箇所をどのようにして指導すればステップアップしてもらえるかということを判断できる…そういうレベルに達した者に対して指導者の資格が与えられる…と。
いうのが、普通だと思います。

それを客観的に判断できる材料になるのが、その道での○○級などの免状であったり、資格であったり。

 

しかし…これが、こと、見えない世界のことになると。

誰が見てもわかる基準というのが、極めて難しい。

もともとが、個々の感性感覚によって大きくアウトプットが左右される世界だし。
カタチがないものだし。


だから、一つのラインとして、○○時間以上のカリキュラムを終える…などが「講師の資格の基準」だったりして。

しかし、そんな○○時間以上のカリキュラムなんて。
ぶっちゃけ、お金を払い、その講座を最初から最後まで参加して、課題があったらそれを出して。
終わり…
ってことがほとんどだと思います。

では。
その人が本当に、本来できていなくてはならないことが「出来ている」かどうか。

残念だけど。
この世界、甚だ疑問だったり…します。


そもそも、資格を出す側である講師が、生徒が本当にできているかどうかというのが判別できない。
そんな事例を、いくつも見てしまっているので。


スピな資格だけではないです。
絵もしかり。

学校などの専門機関で学ぶやり方が正しいとは、全く、思っていない私ですけども。
全く絵の素養も何も一切ない人に対して認定資格を出す…という種類の「○○アート」の世界は、時にかなり疑問を感じるんです。

ただ、絵の方はまだいい。
害が少ないから。

 

スピリチュアルの世界は、他人の精神の深いとこにまで踏み込む恐れがあるのに。
出来ていないことを判別できない講師は、意外に、多い。

認定証を出すことで一定の収入が得られるシステムは、家庭の主婦など「おうちでサロン」したい人にとってはうってつけです。
それだけに、安易に広まりやすい。
自分が出そうとしている資格が、どのような側面を持つのか、っていうことを、しっかり考えている人は、残念ながら少ない気がします。


スキルの面もさることながら、人格的にどうなんだ…というのも、多々あって。

己の暗部というものを見ないようにしているって場合も案外あって。

往々にして、そういう人が講師に回ると…
「受講生ができてない」=「講師の自分がダメ出しされる」=そんなことはあってはならない!
みたいになってしまいがち。

子どもの評価を自分の評価と混同する熱心なママ…という図を、そのまま、生徒と講師の関係にも持ち込んでしまうわけですな。

その感覚がいい方へ作用すれば、
「どの生徒もきちんと指導しなきゃ」
ってなって、かえって良い結果になるかも知れない。

…けど。
自分の暗部や弱点をちゃんと見られない講師だと、
「私の生徒ができないはずない!」
って思うあまり、生徒に嘘をつかせる…っていうケースも出てくる。


瞑想で、何も感じないし何もイメージできないし聞こえもしない…という生徒がいたとして。
でも、それは単に、自分が感じていることを自分でも把握できないだけかも知れない。
あるいは、誘導にうまく乗れていないまま進んでしまって、取り残されちゃってたのかも知れない。
本当に、全く何も感じなかったのかも知れない。
で、全く何も感じなかったとしても、だからって「ダメ」では、決してない。

なんだけど。

「そんなわけない! 見えてるんでしょ!」
なーんて、見えているという返事を強要する…っていう人が、実際にいると。

聞いた話だけど、似た状況に私も実際に立ち会ったことはあるので、わかる。

後から瞑想の場に居た人と個別で話しをしたりすると、案外、
「あの時ホントは全然何も感じてなくてわかんなかったんだけど、そんなこと言えなかったから適当に作って話をしてました」
って、カミングアウトされたことが、何度かある。

中には、「自分で作っているつもりでも、実はそうじゃないんだよ」って言う人もいるし。
いや、実際、そういうことは、多々ある。
それについても、私は自ら経験済みだ。

要は。
この世界は、検証などできない世界なのだ。
そして、だからこそ、生徒は些細なことで不安になり、承認欲求の塊と化す。
特に、講師がその世界で有名だったり、メディアによく登場する人だったり、カリスマ性のある人だと、その危険性は高まる。

言えないんだよ。
わかるよ、それ。

見えませんでした。
わかりませんでした。
何も感じませんでした。

…言えんよね、他の受講生達がどんどん、受け取ったことを話している中じゃ。

できない自分が悪いのだ…自分に能力や素質がないからダメなんだ…って。
なってしまう。


でも。
実際にはそうじゃなくて、ちゃんと感じ取っていることを引き出していくことが、講師の仕事であってさ。
見えたものを話させるだけがシェアリングじゃないはずなんだよね。

 

こういうことって他の場合でもある。
スピな講座だけでなく、心理学系の講座なんかでも、しばしば起こる。

 

出先で書いてると、なんかオチとか結論とかない記事になりがちだな~(笑)

 

 

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