旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

表と裏

いろんな意味でドツボにはまっていた先月。
師匠に、メールで難題をふっかけた。

ひらり、ひらり…と、かわされたのだけど。
納得できず食い下がり、ランチにかこつけ、直問答を試みた。


その席で。
自分が勝手に、自分の中で誤解曲解を大きくしていたことに気づいた。

そして、師匠がメールでの話を避けた意味も、よく、わかった。

その日師匠は、

「人は球体だから。
 メールのように、その一部を切った断面では伝えられない。
 球体のまま、<まる>のまま、そのまんま相手に渡したり受け取ったりしないと」

そう、話してくれた。


人は球体。

その感じは、私にも分かる。

どうわかる…と説明を求められると、キチンと言語で説明するのは難しいけど。



ブログもメールも、確かに、「ある一面をスライスして見せる」ものに違いない。

以前は私は、言語で表現できない感覚は「ほとんど」ない…というくらいに思っていた。
「現在の自分には難しくとも、不可能ではない」という感覚だ。
言語表現のスキルが上がれば、今困難なものも表現可能になる…と。

だが、今は、そう思わない。

もちろん、今の未熟なる言語能力で伝えられるものが知れている、というのは、当然。
文章書きが得意である、という自己認識がなくなって久しいので。
本当にスキルの高い人になら、伝えられないことはないのかも…とは、思う。


しかし、言語スキルが上がったとしても。
上がったら、上がっただけ。
表現しきれない感覚への理解も高まり、結局、言語では無理がある部分はなくならない…と、今は感じる。

もちろん、だからと行って言語による表現への努力を怠っては話にならないのだけど。



で。

人間には、どうしたって、表の顔と裏の顔がある。

でも、その概念にしても。

人の一面をスライスして見た…という状態に変わりはない。

球体も、表面の一点だけ見れば、「反対側」というのは存在する。

しかし、その境界は曖昧で、面で分かれた多面体のようには、はっきりと区別することはできない。

人間の持つ「裏と表」は、そんな曖昧で区別のつかない領域にある…と、思う。


カードの裏と表のように、単純に二元に分けられるものなら、世の中はこんなに複雑ではなかろう。
そんな紙っぺらのような薄い人間など、およそ、存在しないはずだ。



あの人はいい人だ…と「思いたい」から、好ましくない感じのする一面を見ないようにする。

または逆に、その人を何としても認めたくないがために、好ましい面を見ないようにする。


しかし、見ないようにしているだけのことで。
その人には、自分が見たい要素以外の面が、そのままシームレスに続いたところに、ちゃんとある。


もちろん、自分自身も、同じ事だ。



ただ…。

常に地球に同じ側を見せる月のように。

何らかの力が作用して、常に同じ側しか見えない人…というのは、存在するかも知れない。

その人と自分の立ち位置…月と地球の絶妙なバランスのような関係。

もしそうだとしても。
その人も自分も、見える側だけで存在していない、ということを認識していれば。
無駄な争いや確執は、うんと…本当に、減るのじゃないだろうか。


球と球が出会った時に、ぶつかり合う衝撃で反発しあうか…あるいは、自然に境界が交わり交差しあえるか…。

人間関係の好き嫌いは、せいぜい、そういう僅差なのかも知れない。



でも。
その僅差が、大きな大きなファクターになるのが人と人の関係なんだよねえ。

奥が深い。
そして単純。


わかっちゃいても、自由にならないのが、情ってもんですな。

 

 


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