旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

誰が見てなくてもお天道様が見てる...というのは真実である

本記事は、わかる人にだけわかればいいものです。

説明を細々しようという気は一切ないので、わからない人はそのままスルーしといてください。

 

 

 


 

 

見えない世界と付き合う方法は、人によって違う。

私の場合は、実に実に残念なことになっていて。

視覚も聴覚も、そっち方面にはほぼ機能しない。

両手だけがなぜか、向こう側とのアクセス権を持っている。

それも、直接向こう側に抜けるわけではなくて。

説明しがたいのでしないけど、両手の機能の一部分が向こう側からの信号を掴むことができる「時がある」という。

常にではない、ってところが、また余計に残念。

 

それでも、時には、見えたとか聞こえたという感覚で表現するしかないこともあって、そういう時はそんな表現を使うのだけれども。

そんな時ですらも、アクセス元は目や耳ではなく、両手の機能の一部分なのである。

そこが掴んできた信号を、言語として認識しなくてはならない時に、やむを得ず、不自由な言語野にまで送られてくる。

 

私自身のイメージは、そんなところ。

 

この「言語野に送られてくる」段階で、かなりの情報は劣化している。

変換機能がポンコツなので、せっかく送られてきた情報の大部分は、理解不能なままに終わるか、そもそも表の意識に拾われないで終わってしまう。

 

で。

それが蓄積されると。

あるとき、

「なんかしらんけど、急にそう思った」現象となる。

 

私自身には理由がわからない/説明不能なのだが、なぜだか逆らおうとも思わずに、よくわからないまま何らかの行動を起こす現象である。

 

先週、それが起こった。

立て続けに。

 

 

布石は、12月中からすでに行われていて、いくつかの「警告」めいた現象として現れていた。

が、例によって表の意識は何も拾わず。

いくつかシャレにならない事故案件の連続として現れたものがあったが、それでも全体を通して「思ったほどのオオゴトにならずに済んだ」ことばかりで。

おかげで、のんきに「目の前に出てくる、面白そうなこと」に反応してあれこれやってみるというのが続いていた。

相当な蓄積になってきたのだろう。

今回の「なんかしらんけど急に」は、実に唐突で、恐ろしいほどスムーズに事が運ぶタイミングだった。

 

自分では知らないうちに、そのルートに乗り入れていて。

知らないうちに、「なんとなく」着々と、いくつかの素材を注文して。

「なんとなく急に思った」セッションを申し込みして。

いつもなら、1ヶ月くらい先になる予約日が、どうしたわけかすぐに、一週間後に確保できてしまった。

 

図らずも。

旧暦12月に入る、前日に。

というか、そのことに気がついたのは、事後のことだったんだけど。

 

 

見えない世界っていうのは。

恐ろしい。

誰が見てなくてもお天道様が見てる...というのは、真実である。

ただの言い回しだと思ってバカにしてたらいけない。

マジで。

 

 

逆らいがたい勅命みたいなものがいくつか出たので、粛々と、やる(しかない)

 

 

 

セッション後。

夕食の仕込みをしながら、思った。

 

私は、確かに、「現実的な欲」は、かなり薄い。

収入なんかも、いくら欲しいというのが、どうもピンとこないし。

ただ、年齢的に、そんなのんきなこと言っていたらいけない時期にはなっている。

だから仕方なしに、だいたいこれくらいは要るよね...ていう金額を「欲しい」と思うようにしている。

...ていうのが、正直な状態だ。

 

が。

観念の世界におけることであれば、私はすごく貪欲なのだ。

 

バランスが悪いな、というのは、自分でも思う。

 

覚悟が足らん

というのが何度か出てきたのだが。

その「覚悟」は、私がその時思ったのとは、ちょっと違う意味合いのような気がしてきた。

 

 

 

そして。

見る役、聞く役などは逸材がそろっている。

けれど、具現化役はどうなんだ?と。

思ったら。

思わず、周りを見回して。

 

 

高い山の頂上に近い断崖、雲も下に見える。

海が見える。

断崖のくぼみにいる。

この景色は、すごい、見覚えがある。

もちろん、「この私」は、そんなところに行ったことはないけど。

 

 

ククリヒメは、あの時、なんて言ったんだっけ。

ククリヒメ神ではないククリヒメ。

いやまあ、あの神様でないのかどうか、定かでないけど。

龍のウロコを一枚渡されて。

あんなデカいのもらって、懐に入るような代物じゃないのに、アレをどうしたんだか。

というか、妄想に起承転結なくてもおかしくはないけど。

 

 

セッション中に、今、家にあると断言されたモノは、実際に家にある。

知りようがないことのはずだけど。

いくつかは、言われた時にすぐに「あるよ」と答えられた。

一つは、後で思い出した...やや形状が違ったけど、でも、あった。

 

 

渡されたウロコは、どなたのモノだったのだろう。

 

 

見えない世界の時間の単位は、人族とまるで違う。

違いすぎる。

 

 

 

 

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自分ができることはシンプルで、選べる道も多くはない

自分ではない、他人がしていること。

それに対して、「なぜ?」と思う。

その、思うこと自体は、止めることができない。

 

ただし、それはどうあっても、外野の勝手な感想でしかなくて。

 

そういうことが多く続いた時に、自分が自身を振り返って、自身がどうしたいかを、自身に問う。

 

できることは、それだけだ。

 

実に、シンプル。

 

 

そこで、自分以外のなにかを...他人でも、世界でも、なんでもいいけれども。

とにかく、自分ではないもの。

そこに支配力を及ぼしたい...なんて思うから、話がややこしくなる。

 

 

離れるか。

呑むか。

あるいは、自分の影響力を高める努力をすることにより、間接的に波紋を投げかけるか。

 

選べる道は、それくらいだ。

 

 

 

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連ねる 束ねる 重ねる 通す 結ぶ そして、切る...という日常の中の神事

連ねる

束ねる

重ねる

通す

結ぶ

 

そして、切る

 

 

日常的に登場するこれらの動作や、それを表す言葉。

それらは単なる動詞、単なる作業に留まらない。

 

それらには、すべからく

 

神 坐す

 

それらは、日常作業でありつつ、神事でもある。

 

神事でありつつ、日常作業でもある。

 

 

日本人はそうしたものをうまく取り入れて生きてきた民族。

多くの神事が、手仕事として日常に溶け込み、現代まで受け継がれてきている。

 

そんなものの一つを。

どうしても、ある大作用に使いたくて。

まずは取り入れるところから...ということで練習中。

 

 

自分はなんでこうも不器用なんだろう...と思いつつ。

図を理解できないところが何より痛い...とも思いつつ。

教えてくれる動画がたくさんあって、ありがたい時代だな...と実感しつつ。

一体、いつになったら「妄想の大作」に至るのか...と首をひねりつつ。

それでも、千里の道も一歩から...だし。

ね。

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