旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

アドバイスを求める相手をどうやって選ぶのか...「虚業」ではなく「実業」の人が望ましい

実にタイミングよく、面白い記事がUPされていたので、まずそれをシェアする。

こちら。

kasakoblog.exblog.jp

 

 

 

何が「タイミングよく」なのか、っていうと。

 

「アドバイス求めるなら、しっかりと実業のある人がいいね」

 

ていう話を、今日、していたからだ。

 

 

思いつきでしゃべってるだけで「コンサル」を名乗ってる人が、なんと多いか。

そんな話から出てきたこと。

 

もちろん、私や、今日話をしてた相手(仮称Aさん)が関わったレベルが「そもそも、コンサルを名乗っていいのか?」という人たちだ、っていうのは、ある。

それを、踏まえて。

 

あんまりにも、「根拠もなく、実際にはちゃんとした戦略性もないのに、あるかのように見せかけている」ケースが多いよね、っていう話だったのだ。

 

リクエストが来た内容、というのは。

現実にそれを言った人以外にも、同じことを思う人が必ずいるもので。

仮に、そのリクエストをした人が実際にはサービスを買わずに「言っただけ」に終わったとしても、ニーズはあるわけだ。

 

けれど、自分一人の頭の中だけで考えた内容は、「自分にしか<よい>と思うポイントがない」とか、「つけたい価格に見合っていない」とかいうことが、起きる。

安くつければいい、というものではないけれど。

高くつければいい、というものではない。

適正価格は「創り出すもの」とは、確かにそうだと思うのだけど。

それにしても、やっぱり、「バランス」というのはあるわけで。

 

提供したいと思った内容と、つけたい価格が、合ってるかどうか。

それは、重要。

 

 

そして、そうしたことを「ちゃんと」計れるのは、実業をきっちりとやっている人たちだよね、って。

そんな話。

 

 

「起業女子」なんて言われている人たちには、講師とならんで「コンサル」「コーチ」「カウンセラー」が多い。

私には、そういう印象がある。

女性だけじゃなく、男性にも多い印象はある。

たまたま、そういう方達との絡みが今まで多かっただけかも知れないけれど。

 

その人のバックボーンに、きちんとした市場感覚とか事業センスがない、という人も多くて。

そういう方のアドバイスは、ただ単に口先で「いいんじゃない、あなたならできる!」とか「やりたいことはやればいい!」みたいな耳障りはよいけど実のない台詞だ、ってことが多い。

私はそういう印象だし、私が話をしたことがある多くの人から、同じような印象を聞いている。

それだけ、「テキトーなこと言う」ケースが目立つということなのだと思う。

 

アドバイスする側が、そもそも「机上のモデル」だけで話をしている。

それも、自分の机の上だけという範囲で。

 

そんなアドバイスに従っても、机上論がさらなる机上論に上書きされるだけだ。

 

 

今日は、そんな話をしていた。

そこに、上のリンク先記事。

 

 

 

私も、仮称Aさんも、今までにアドバイザーやコンサルタントに相談してきたことがある。

私もAさんも、たまたま、「仮にうまくいかなくても、アドバイスしてくれた人に責任を求めない」派なので。

それは、責任が相手にもある、と思ってないという意味ではなく。

最終的にそれにGOを出すのは自分だから、責任は自分にあるのであって、アドバイスの相手にケツを拭かせるのは間違っている、て思っているという意味だ。

実のないアドバイスをする人にも問題はない、と思ってるわけでは、決してない。

それは大いに問題なのだ。

が、そういうアドバイス相手を選んだのもまた、自分だから。

そこに矛先を向けることはしない、という。

それだけのこと。

 

Aさんも、私も、自分一人の頭で考えつくことなんて知れてる、と知っている。

そして、視点にも限界があり、必ず盲点があることも。

自分の発想の先へ行きたいと思えば、自分一人の発想から出る必要がある、ということも。

 

だから、これからも多分、人に...プロに、アドバイスを求める機会はあるだろう。

 

その時に、どういう相手を選ぶのか。

 

それはやっぱり、「その人自身も、人からのリクエストに従ってやってみて、結果を切り開いていった経験のある、実業をやってきた人」だよね、と。

そういう話。

 

 

異業種でもいいのだ。

むしろ、その方がいい場合も多々ある。

同業者や、同じ畑出身の人とは、盲点や制限の枠が重なっていることも多いので。

発想の限界、というのも、似たラインにある場合があるので。

 

どんなことも、結局、最後は「人」だから。

背負った看板とか、収入の多寡とか、地位の高低とか、そうした外側の要素よりも、大事なのは

「いかに、その人が現実を生きているか」

「どんな信念の元に生きているか」

だと、思う。

 

 

そして、それを真面目に考えることこそが、

「自分は、これを誰に届けたいと願うのか」

ということを考えることにつながる。

 

手近なところで済ます、っていうのは、一番よくない。

 

 

 

 

思いも寄らないところから、思いも寄らないモノが飛び出てくることもあるのが、この世の面白さだね。

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疑心暗鬼と猜疑の世界での「願い」は、呪いと紙一重

ある時、仮称Aさんが

「〇〇さんって、実際にはどうなの?」

と、たずねてきました。

 

Aさんがそういう種類の問いを発する時は、あまり芳しい気持ちからでない、ということは経験値として持っていました。

少々用心しながら、どういう意味?と、聞いてみました。

彼女がその方面のことについて学びたい気持ちになっていて、そのために聞いているのなら、と思ったから。

興味が(実はものすごく)あるのは、わかってる。

でもきっと、素直にそうは言わないだろうな、とも思いつつ。

 

 

すると、Aさんはどうしたか。

自分の交友範囲にいる、〇〇さんの専門ジャンルと「少しばかりかぶっているところがある」人たちの名を次々出しながら、〇〇さんは自分の周りでは評判が悪い、ということを延々と話し始めたわけです。

「…ていう風に言われているから、緋呂さんはどう思ってるのかな、って聞いてみた」

て。

 

 

その話の中には、Aさん自身の実体験は、一つもありません。

Aさんは〇〇さんと直接会ったこともないし、サービスを受けたこともないし、メールやコメントの交換もしたことがないのですよ。

たまに、記事のシェアにいいねを押している程度。

 

それ、私に聞いてどうするの?

こんなに評判がよくない人だって知ってるの?と、ご忠告のつもりでしょうか。

 

調子に乗ったのか、〇〇さんと懇意にしていて私も仲良くさせていただいている他の方のことまで、よくわからない持論で批判を始める始末。

 

「今の話って、Aさんはどこにも何も直接関わってないんだから、どうでもよくない?」

て、うんざりしながら言ってみたわけです。

この話はここまでで終われ、というつもりで。

 

Aさんと私が友人であることと、〇〇さんやその他の方との交流とは、全く別問題。

Aさんがその人たちのことをよく思ってないことはわかったけれど、自分自身の経験したことを言ってるわけでもないのに、私の好意や印象を操作できるとでも思ったんでしょうか。

逆に、Aさん側の関わってる方達については、私は一切面識も交流もないので、実際ににどういう方達であるのかなども不明です。

話が噛み合うわけがない。

 

 

今はAさんとは交流もありませんけれど。

自分が経験したわけでもない他人の伝聞(しかも、嘘か事実かすら不明)を根拠に印象操作しようとするって。

要は、自分の思い通りになる人だけ周りに置こうっていう姿勢ですよね。

 

そんなことで左右される人を周りに集めて、楽しいですか?

 

 

私は、近い人でも、人物像をできるだけフラットにみていたい、と思っているので。

マイナス評価も、耳に入る時には入れて、その上で総合的に見ていたい、と思っています。

ただし、聞くに値するのは、「本人が、直接言われたりされたりした事実」のみです。

経験を土台にしていても、話を膨らませていたり妄想になってたりすれば、聞く価値ないし。

まして伝聞が根拠とか、話になりません。

Aさんはその時以外にも度々、そういうことがある人だったから。

結局は付き合いきれなくなって遠ざかりました。

 

 

支配欲の強い人は、不安の強い人。

私はそういう風に、思います。

不安が勝つから、人を支配したくなる。

信用しない。

常に疑心暗鬼で、直接自分に関わりないようなところまで見張っている。

一人でカリカリして、妄想の中で戦ってる。

妄想では、常に勝つのは自分。

でも、実際には決して直接対決はしないんです。

私にしたように、陰口で印象操作しようとする。

 

そして。

残念なことに、その程度で操作されてしまう人に厚い信頼など置けるわけがない。

 

何らかの「埃」を見つけ出して…時には捏造して。

糾弾にかかるのだよねえ。

 

そのエネルギー、建設的なことに使えばいいのに。

 

 

久しぶりにその名前が耳に入ってきたので、つい、思い出してました。

相変わらずのようで。

神や仏は、自分の想像の通りに、想像の世界で働いてくれるからね。

その「願い」は、他人への呪いと紙一重なんだけどね…。

 

くわばらくわばら。

 

 

 

ダンナ氏作の握り佛

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尋ねよ、尋ねよ、尋ねよ...だからこの文字。音が名前と同じなのは偶然か?

インスタントになんでもすぐに答えを出したがり、すぐに見える成果をほしがる。

そういうものがないと、あっけなくダメとか向いてないと決めつけたり、楽しくないからやめちゃえ、となったりする。

無駄にかじりつく必要はないと思うけれど。

そんな姿勢じゃ、何一つ成せないよ、とは今でも思っている。

 

 

私の最大の道標となる人は、絶対に、答えを教えない。

答えどころか、ほとんどヒントも出さない。

 

おそらく私が探し当てて辿り着くべき「チェックポイント」となるものを、ぽん、と投げてくる。

テーマであったり、課題であったり、カタチはその時によって全く違う。

 

大きな紙面にチェックポイントのマークが小さく入った白地図をぽいと渡されるようなものだ。

 

その座標も書いてなければ、現在地がどこなのかすらも、書かれていない。

計測し、調べるところからスタートしなきゃならないのだ。

 

そんな問答を、今まで数年間。

7年?8年かな?

やってきた。

まだまだ、続く。

 

会う機会は少なく一回の持ち時間も少ない。

その時間に、ヒントをできるだけ多く引き出さなきゃならない。

そのためには、自分の側が用意する材料がたくさんある。

どれが当たるかわからない。

運良く、用意してきたものがヒントに近ければラッキー。

それを糸口に、次のヒントを探しに出ることができる。

全部遠ければ?

下手すると、その課題の延長上にはない、まるで新しい白地図が渡されてしまうこともある。

そして、そんな時でも、前の地図が無効になるわけではない。

課題は活きている。

そう、増えるだけだ。

クリアしない限り、増え続ける。

クリアしたら、その地図の先が出てくることもあり、結局、増える。

 

時には、以前に渡された地図のことなどケロッと忘れられていることすらある。

しかし、地図は活きている。

ある時、唐突に、バラバラに出てきてバラバラに探っていたそれらの地図が「一続きの巨大な設計図」になっていたことがわかる時が来るのだ。

 

もちろん、それがわかったからって、ゴールとは限らない。

その地図に加えるべき拡大図を作ることが要求されたりと、油断ならない。

 

私の最高にして最優先の道標は、そんな人だ。

 

 

インスタントに手軽に成果を求めるこのご時世。

これに耐えられる人は、多くないと思う。

実際、耐えられなくて離脱していった人を多く知っている。

彼らに共通するのは、どこかの時点で「疑問」に絡め取られる、ということだ。

 

「こんなことを続けてて、一体何になるんだろう」

「こんなのが本当に、自分のためになるんだろうか」

「単に、適当なことを言って煙に巻かれているだけなんじゃないのか」

 

そんな、疑問たち。

 

 

彼らは、尋ねるべき問いを、間違えている。

私はそう思っている。

 

尋ねるべき問いを発する相手も、間違えている。

 

道標は、道標なのだ。

道標とは、そこに在ることそのものによって、後続へのヒントを示す。

何が書かれているかは、尋ねる者が自ら読む必要があるのだ。

直接問いを発しても、満足な答えは得られない。

何を読み取ったかは、自分にしか、わからない。

 

問い続けるしかない、自分に。

 

この白い地図に打たれたこのマーク。

これは、一体何を意味するのか。

そこから始めなきゃならない。

 

そこへ行くのか。

そこから始まるのか。

そこに何かがあるのか。

そこに近づいてはいけないということなのか。

その相対的な位置は、どこなのか。

それ以前に、この地図の天地はどっち向き?

 

その謎解きが進んでいくと。

次第に、出されるヒントが、具体的になる。

具体的、というよりは、絞り込まれてくるというべきか。

 

最近私はようやく、その段階まで来た気がする。

 

 

「どうやって、ここまで辿り着いたの?何が一番大変だった?」

 

そんな問いをもらったけど。

私の口から反射的に出た言葉は

 

「いえ、別に大して苦労はしてないです。なんか、勝手にこうなりました」

 

だった。

そして、それは、事実だ。

 

でも。

真実ではなくて。

その事実に至るまでに、水面下での迷走の数々や痛い目見た数々は、確かにあって。

ただ、私には、「苦」と感じにくかったし意識にも上ってこない、というだけ。

 

 

私はなぜか、答えのない問いを繰り返す工程に、子どもの頃から馴染んでいる。

顕著になったのは中学生頃。

 

だから、私の中には、基本的な観念として

「答えなどすぐに手にはいるものではない」

というものが、染みついている。

むしろ、すぐに手に入る答えに興味がわかない、ていうくらい。

 

もちろん、そのよくない習慣として「わからなくても気にならない」というものがある。

空白を空白のままにしておくことが平気。

後に回すことも、平気。

自然に発酵するまで、いつまででも放っておける。

 

その副次的なものとして「飽き性」になった。

 

 

 

何をこんなこと書いているか、というと。

「この道のりに耐えられる人は本当に少ない」

と、ものすごく、しみじみと、言われたからだ。

 

自分がどれくらいの難易度をクリアしているのか、まるで自覚がない、と。

 

そして、その自覚のなさ加減は、自分が作ってきた道筋にあるものへの軽視につながっている、という。

それが、阻むし削ぐものでもある…。

 

そこで。

今までとは少し位置をずらした「尋ねなさい」という地図を渡された。

 

自分に尋ねる、という解き方は同じだけど。

尋ねかたは、少し違う。

これは難題だ。

 

 

 

そんな無茶な道標とはまた別の。

こちらは、なんというか…鏡?

ガラスではない素材の鏡、というか…

本を映している鏡?みたいな?

チェックポイントの他に、白地図の天地や現在地のマークがある具体さをちゃんと示してもらえているところから読み始める学びもあり。

途上で作っている、この札たち。

なぜ、この文字を使うってすぐに思ったのか。

なんか、わかった気がした。

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この文字は、私の道、そのものだ。

 

読みも、名前と同じ「ヒロ」だけど。

果たして、それは「たまたま」か?

 

 


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