旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

見えない世界に在る「系統」〜流れを汲む、という意味を再考する

圧縮率をあげて、サイズの小さいところにもちゃんと描けるようになれ

という、私にとっちゃ本気で苦手な、しかし実際に必要な、永遠の課題とも言えるものに直面中。

ゆえに、やや逃避。

 

 

私は実験好きで。

今まで、ほんと、いろんなものを実験してきました。

まあ、事前事後の検証などしてないものがほとんどのため、「そんなの実験と言えるかアホー!」かもだけど。

 

気になると、気になるんですよ。

いろんな意味で。

 

術者とか、ヒーラーとか、占い師などのカテゴリはもちろんのこと。

対面で何かを提供している人たちや、手仕事によって何かを提供している人たち。

ほんと、興味深くて。

 

見慣れない技法や術法を使う人となったら、なおさら気になるし。

すごく支持されている(みたいに見える)人も、けっこう気になる。

 

その人の施術なりセッションなりを受けて、私がどう変わるか、私の課題が何かしらの進展を見るか…ということは、ぶっちゃけ二の次、三の次。

受けるために課題を設ける、なんてこともあるので、そりゃあ当然そうなる。

 

お金払ってお客になって行く最大の理由は、

「その人が、どうやってそれを行うのか」

ってところ。

 

メール鑑定とか、遠隔セッションとか、トークもメールの行き来もない一方通行の「遠隔ヒーリング」とかも、けっこうな数受けてきました。

伝授系も。

 

 

今でも、どうしても、ついつい、ウズウズしちゃってねー。

受けたくなるんですよ。

 

 

でも。

本当に、ここ最近(いや、具体的にいうと、先月半ばから)、もうそういうのやめよう、って思いました。

 

本当に信頼できる人が設定しているものだけに絞ろうって。

 

無駄だから、ということではなく。

自衛のためです。

 

 

さすがに私も、見えない世界の中にあっても、個々に「系統」というものがある、ということはわかってました。

ええ、知識的には、前からわかってました。

 

しかし、ここんとこ、本当にね。

実感として、「相容れないものは、相容れない」ということが感じられるようになりまして。

 

うっかり、興味が先にたって「入れてしまう」と、後から自分が困ることになる。

おそらく過去にもそうなったことがあったんだと思うのだけど。

なんせ自覚の薄いヤツなので、なんか調子悪いな、っていう程度で通り過ぎてしまってたと思います。

 

けれど、もうさすがにね。

ああ、これはやっぱり、マズイことになるんだな。

と実感しちゃうような体験を続けていくつかしまして。

いい加減にせにゃー、と。

 

 

 

私には幸いなことに、とても信頼している方たちが比較的身近にいてくださってます。

やっぱりね。

そういう方たちに、自分の系統は沿っている感じがするんですよ。

だから、信頼できるんだな、っていうか。

 

どれほど高名だったり、人気があったりする人でも、それほどの縁を感じない方たちは、やっぱり、系統としてのズレがあるのだと思うわけです。

個人的に好感を持っているとか、そういうのは、それほど関係なくて。

好感ががあっても、「系統違うな」って感じることも、たくさんあります。

 

 

ズレのあるものを、うっかり自分に触れさせてしまうと。

やっぱり、調子悪くなります。

その方たちの施術なりヒーリングなりが間違ってるということではなくて

(いや、そういう場合もあるっちゃあるけど…)

 

もう、流れが異なる、としか。

 

入れてみないとズレははっきりわからない、というところが、私のヘボなところなのですが。

入れなくても、そこそこ感じることも、あるわけで。

今までは、そんな時でも興味が先に立って、それに負けてました。

 

けれど、もう、そんなことしてる場合じゃないー。

調子を保つってことが、このトシになると、本当に、重要なことになってきます。

回復が遅くなったし、場合によっちゃ、回復しきらずマイナスで着地してしまうことも起き得ると実感できたからね。

好奇心に殺されてる場合ではないのです。

 

遠隔ヒーリングとかはさ。

人が設定したものを入れてないで、自分でやれや、っていうのもあるしね。

(使ってないから鈍ってるよなあ〜)

 

 

緑色の爺様に、とある体の部位を保護いただいた(らしい)のですが。

ちょっと、その部位について、色々と自覚もあり。

自分自身というものも、また、一つの「源泉」であると考えた時にね。

違う水を入れるって、端的にいうと「汚染」を許すってことだよね、って。

思うわけですよ。

 

術師的絵師、という役所を考えても。

己を保つ、ってのって、至上命題だしね。

 

 

「流れを汲む」という言葉がありますが。

その意味するところを、今一度、よーく考えよう、と。

そんなところです。

 

 

 

まだ途中のペア絵皿。

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「自分のため」の先になにがあるのか…自分の行動を貫く筋についての一定の答え

絵を描く、という行為は、なんのためにあるのか?

 

古代から、人は絵を残してきた。

文字のない文化にも絵はあった。

絵はないけど文字はある、なんて文化は、たぶん存在しない。

絵が文字に変わった、ということはあるとしても、たぶん逆もない。

 

私は、人間の本能の中に描くという行為が刷り込まれている、と思っている。

 

では。

それは、一体、なんのため?

 

 

コミュニケーション方法の一つ。

それは、あるだろう。

言語が異なる民族同士の意思疎通にも絵は役立つ。

 

記録方法の一つ。

それも、大きい。

写真が登場するまでは、景色を留める手段は描くしかなかった。

写真が普通になっていても、絵による記録方法の方が都合がいい場合も多々ある。

 

でも。

それらは、たぶん、副次的なものなんじゃないだろうか。

 

文字がなくても絵はある文明。

洞窟の壁画。

祭壇を彩る装飾。

顔やボディに文様を描く人々。

家伝の文様。

複雑な方程式を解くための図解。

 

それらは結局のところ。

目的は、ひとつだ。

 

神へ届けるため。

 

人間という種族が存在することを伝えるため。

人智を超えた存在へ伝えるため、そしてそこから伝えられることを紐解くため。

 

 

支配者が変わる時、旧い支配者の元つくられた歴史を葬る理由はなにか。

それも結局、神へ存在を主張するためだ。

 

 

これは、私が自分の立場から感じることなので。

まるで違うことを思う人は当然、いるだろう。

そして、それでいいと思う。

 

私の行動原理は、どうしたって、最終的にはそういうところに行き着いてしまう。

もう、これは、どうしようもない。

私はそういう風にできている。

そう、認めるしかない。

少し前までは、そんなの拒否してやるって思ってたけど。

できるもんなら、もうしてる。

 

 

「なんのために、それをやるのか」

「自分のため、はいいとして、その先にはなにがあるのか」

 

私は神秘主義者でも運命論者でもないけれど。

やっぱり、人は神なくしては存在できないし、神は人はなくして存在できない、と思っている。

 

人が、人として「幸せ」で「よい生をやりきる」ために。

その人が意識するかしないかに関わらず、神の存在は外せない。

神だけじゃないけど、便宜上「神」にまとめておく。

 

 

なんのために、描くのか。

という最初の問いを、問い直す。

 

なんのために、絵描きであり続けるのか。

 

そう在りたいから、という自分のため。

じゃあ、なんのために、そう在りたいのか。

 

人は、想いを神に届けたいと願う。

どんな人でも、一生のうちに一度もそれを思わないという人はいないと思っている。

届けたい想いが、呪詛や泣き言であったとしても。

それを届けたいには、違いない。

 

人が、別の人に対して届けたいと思う「想い」も、最後に行く先は神だと思う。

人は皆、自分の中に神を宿す存在だから。

宿しているのが荒神や魔神であっても、神は神。

 

 

私は、それを、記録したい。

私の手による、私の感覚による、記録。

 

アートセッションを、天使の頃と、龍になっての今と、二本立てみたいにして展開し始めたけれど。

今、この視点に立ってみると。

描くモチーフとして登場するのが天使だろうと龍だろうと他の何らかのカタチであろうと、なんの区別もないとわかる。

 

無理に、天使で描くの、龍で描くの…という区別を設ける意味がない。

 

 

「言縁占符」(ことよりせんふ)のリーディングや護符作成も、同じことだ。

読み取るツールとしての札があり、そこから読んでこの手で「読んだことを型として記録し、エネルギーを留める」媒体としての護符がある。

アートセッションとなにが違う?

違わない。

ただ、提供するスタイルが違うだけだ。

 

やっていることは、どれも、同じ。

 

 

自分の中から出てくるものを像に作るとか。

皿に描くとか。

そういうのも、基本的には同じことだ。

 

「なんらかの想い」があって。

それを、カタチに留める。

 

ご依頼を受けて作る時は、もっとはっきりしている。

ご依頼主の「想い」をカタチにするのだから。

 

 

先日、このリーディングの感想記事に、こんなことを書いた。

 

 私、何か一つでもいいから、「歴史に残したい」です。

「自分のため」の先に。サイキックミディアムのリーディングから遠くへ釣り針を投げるの巻 - 緋呂の異界絵師通信

 

むしろ、「作品を残したい」というよりは…だ。

 

この世界に生きている人を、残したい。

この世界で生きているモノが伝えることも、残したい。

見えない世界が伝えたいとして伝えてくることも、残したい。

 

結局は、「想いをカタチにして、残したい」ということなんだな。

それをすることにより、結果として、作品が残る、という。

 

文章にすると実に陳腐だけど。

まあ、えてして、そういうものかもしれない。

 

 

だから。

残したいから。

大事にしてくれる人の手元へ送り出したい。

だから、安値はつけたくない。

むやみに無料提供もしたくない。

支払って手に入れてもらう、という意味も、ちゃんとここにあった。

そのかわり、本当にすごく大事にしてもらえるとわかる時は、無料提供も悪くない。

あなたなら、と思える人ならば。

(こちらからのご提供、っていう意味ですよ。手に入れたい側から言う話じゃございませんので、そこお間違いなく!)

 

 

今の時点での私の「一定の答え」は、出たようです。

 

 

 

刻々と早まる日没の時間。

夏はもう去っていったね。

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豊かな暮らしに必須なのは、特に時間と精神の余力だなあ、と

時間も精神力も体力も、大事なのは「ゆとり」だと思う。

揶揄される「ゆとり教育」とは違う。

遊びがあるかないか、という話。

自動車のハンドルやブレーキなどに持たせてある「幅」のことだ。

余力、とも言う。

 

 

めいっぱい使い切って日々を過ごす、ということがよいとされることもある。

けれど、それは、「悔いを残さない」という意味であって。

実際に、時間や気持ちやエネルギーをMAX毎日使い尽くすことを奨励してるわけではない。

 

 

余力がなくなると、どうなるのか。

 

何も、新しいことができなくなる。

 

新しいことにチャレンジする、というのは、エネルギーが必要。

そこに回す分は、日々の行動で使い切っちゃったら、なくなってしまう。

 

補給を上回る消費が続くと、どうなるか。

考えるまでもない。

 

 

現代は流れがすごく速くなっていて。

しかも、細分化されていて。

全体的に、余力が乏しくなっているように思う。

 

なんでも、すぐに結果を見たがり。

しかも、ほんのちょっとのことではなく、大きな動きが見えないと「無い」ことにされてしまったり。

 

質問もインスタントなら、答えもインスタント。

 

上っ面だけなぞったようなカタチだけの答えであっても、見えるものに飛びついてしまう。

 

そして、それを手にしてしまえば。

もう、もとの問いを問い直すようなことも、しない。

 

この年になると、そういう動き方がキツくなってくる。

 

 

縁側でお茶しながら、ぼーっと空を眺める...そんな感じの時間を意識的に確保しないと。

いろんなところの余力を使いすぎてしまって、発想やひらめきが、狭くなっていく。

 

一見、無意味に思えるような「答えのない、問いのための問い」というものが。

どれほどに、豊かな精神を生み出すのか。

そのためには、時間の余力が必要で、それがどれくらい貴重なのか。

 

そんなことを、思う日々。

 

 

 

格子のマス目から見ても空はキレイだけど。

マス目のないところで全体を見る方が、ずっと美しい。

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