旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

価値観の変化と手のひら返し

手のひらを返す、という表現がある。

突然、態度を一変させることを指す。

 

掌を返す

読み方:てのひらをかえす
別表記:手のひらを返す、てのひらを返す

急に態度を変え、従来とは正反対の対応をする様子などを意味する言い回し親身に接していたもの突如として冷淡あしらうようになる、といった状況を述べる表現

手のひらを返すとは - 日本語表現辞典 Weblio辞書

 

お金や地位がそこそこあった時は笑顔で親しげに近寄ってきてた人たち。

それらの切れ目が縁の切れ目で、失ったらコロッと、知らん顔する。

いい時も悪い時も、態度を変えずに接してくれる人は信じられるね。

自分も、気をつけよう。

 

まあ、そういう話に、なるよね。

 

 

でも、ふと思ったのだ。

 

価値観は日々、移り変わる。

私のそれは、あきれるほどに急展開する時もある。

さすがに、真逆になるってことは、そうそうはないけれど、皆無でもない。

 

当然、その前後では、人への接し方や見方にも違いが出てくるわけで。

 

場合によっては、まさしく私が、相手の人から「手のひら返しやがって」と思われている可能性もある。

 

でも、自分にはそういう意識はなくて。

どうしてかはともかく、昨日までの自分と今の自分が、まるっきり感じ方が変わってしまって、もう戻すことはできないのだ、ということだけが厳然としてあって。

変わる前によいと思っていたことも、後の今では取るに足りなくて。

そんな風に反転してしまったことに、自分自身が一番、驚いて戸惑っていたりもするわけだ。

 

 

私が「あいつは手のひらを返すようなヤツだ」と思ってしまった経緯があった、あの人。

もしかしたら、あの人だって、その「前後」を経験している人なのかも知れないじゃないか。

 

そんな風に考えはじめたら、手のひらを返されたのどうのと、根に持っているのもバカバカしくなってきてしまった。

 

 

人は、変わるものなのだ。

ただそれだけのことだ。

相手も自分も、ほぼ同時期に同じくらいの変化を遂げたとしたら。

その結果、お互いの乖離はどれほどになるものだろうか。

 

 

変わったのは相手ではなく、自分かも知れず。

ただ、それはもう想像するしかない以上は、正解が何かなど、お互いわかるはずもない。

 

例題に書いたお金や地位の切れ目、という話で考えてみるならば。

向こうはわかりやすく、それが付き合うポイントであるということは「変わりなく」、だからこそ失った自分にはもう知らん顔できる。

失った、という「変わった自分」の存在があるのは、事実。

そういう話でもあるわけで。

相手が自分ではなく自分の背景に興味を持っていただけの人だった、と気づいていなかったのが、自分のミス。

そんな話でも、あるわけで。

 

はっきりしているのは、両者の間にあった共同幻想は壊れて、もう二度と戻らない、ということだけで。

どちらが悪か、どちらが間違いか、そんな問題でもない。

のかも知れない。

 

 

もちろん、はっきりと悪意があれば、それは別の問題だし。

黙って耐えろなんて、言う気は毛頭ないけども。

 

そうでなく、自然発生的に起きてしまったことなら、いつまでもグタグタ引きずっているのもバカバカしいかな、なんて。

思うわけ。

 

 

 

 

 

★外部サイトからも読者登録できます!→

 

 

人の役に立ちたいなら、まず自立することが先 その単純な理由

人が好きで、特に好きな人の役に立つことを願っている。

そういう人は、きっと、たくさんいると思う。

 

でも。

忘れてはいけないことが、ある。

 

誰かの役に立つには、自分自身がしっかり、自分の足で立っていることが必要だ、ってこと。

 

 

それができてないと、どうなるか。

 

役に立ちたいと願って、何か手伝いたいと願って。

その役割を相手に乞う。

結果として、その行為は、相手の負担になってしまう。

 

なぜって、理由はしごく、シンプルだ。

 

その相手が、「自分で立っていないあなた」の杖まで兼ねなくてはならなくなるからだ。

 

だから、「人を使っての自己実現はNG」なのだ。

 

 

自分で立っていない人は、無意識に何かに寄りかかっている。

そうでないとバランスがとれない。

「あの人の役に立ちたい」と願った時、自立できていない人は、相手に対して指示を求めることになる。

もちろん、相手の意向を聞くというのは必要なことだ。

ただし、自立できていない人のやりがちなことは、「意向の確認」ではなく、「全権委任」。

そして、往々にして「でも私の感情はちゃんと汲み取ってください」がもれなくセットされている。

 

役に立ちたい感情とは、だいたいの場合、その人に気に入ってもらいたい感情だ。

 

少々のことなら受け入れられても、それを始終やられると、相手は疲れてしまう。

 

そして、結局「自分でやる方が早いから、もういいよ」ということになる。

 

自立できている人は、相手が何をしてほしいのか、まず自分で大まかに見当を付けてプランを立ててくる。

その上で、「AかBなら、どっちがいい?どっちも嫌なら、どうしてほしい?」みたいな聞き方をしてくる。

何もないところから指示を待つのではなく、選択肢として相手に差し出してくる。

そうすると、聞かれた方は端的に答えるだけですむので、他にやりたいことに集中できるわけだ。

 

これは、ちょっとした違いに思えても、度重なると響いてくるのだ。

 

そして、自立している人は、自分の協力できる範囲も提示してくる。

うっかり過度な助けを求めてしまうことも少ないし、そうなった時はそのラインを再確認しあえば事足りる。

 

これが、自立していない人だとどうなるか。

 

自分のキャパシティを把握できていないので、後になって無理、できないとなる。

または、ものすごく無理をしてしまう。

すると、結局、続かない。

出してもらいたかった結果も、本来の水準以下になってしまう場合が多い。

 

では、その差分は、誰の負担になるか。

当然、手伝ってもらっていたはずの人だ。

 

 

だから、自分が何をしたらいいかわからない人は、人の手伝いをすることで自分を満たそうとしてはいけない。

その前にまず、自分が何をしたいのか、どれくらいできるのかを客観視できるようになることだ。

 

たいそうなことでなくてもいい。

テキスト入力できるなら、10分で何文字くらい入力できるかを把握しておくとか。

打ち合わせやランチの会場手配ならできる、とか。

名簿は作れる、とか。

なんでもいいので、自分のカードをはっきりさせておくこと。

手伝いをしてもらう側は、それを見て、頼めるかどうか判断できる。

 

自立というのは、何でも自分でできます、という意味ではない。

自分のできることを自分で把握している、ということ。

相手にその判断をさせないこと。

 

そして、スキル把握云々よりももっと、大事なことがある。 

 

自分の感情は自分で始末すること。

不安の処理を相手に求めないこと。

 

これが一番大事。

 

 

スキルの把握もよくわからない、感情にも責任持てないかも知れない。

そんなあなたは、じゃあ、人の役に立つことはできないのか?

 

そんなことはない。

安心してほしい。

 

そんなあなたに最適な「手伝う方法」は、ずばり。

その相手のお客さんになることだ。

常連になってあげました、という風を吹かせるのは厳禁。

淡々と、知らない人たちと同じ立場のお客になること。

または、黙って資金援助をすること。

額は多くなくてもいいが、黙ってやること。

そして、役に立ちたい相手のことを人に知らせること。

今で言うなら、ブログやSNSでシェアする。

 

 

「そんな役に立ち方ではなく、もっと、一緒に作り上げていく的なことがいい」

なーんて、ちらっとでもよぎったあなた。

あなたは、役に立ちたいのではない。

あなたの本当の願いは、「その人に認めてもらいたい」だ。

自分を認識してもらいたい、あわよくば、かわいがられたり重宝されたい。

ってこと。

それが、「人を使って自己実現すること」そのものだ。

まずは、自分のその欲求をちゃんと知り、そういう自分を受け入れることが先決。

誰かにその穴を埋めさせてはいけない。

 

アピールせずに、淡々と援助する。

それができるようになった時に、その意味がわかるはず。

 

役に立つってのは、一筋縄ではいかないものなのだよ。

 

 

 

 

f:id:art-hiro-b:20170804212028j:plain

琵琶湖 長浜~竹生島連絡船からの景色

 

 

 

 

★外部サイトからも読者登録できます!→

 

 

奥底に、まだつなげられていない古井戸の存在を感じるけれど、なかなかそこに届かなくてむずむずする

2年前、2015年8月3日。

この日書いた記事がある。

そこから引用。

 

去年の夏辺りから、少しずつ、そういう衝動が来るときが、減ってきて。 書くネタには困らないけど、書かないではいられないっていう感じでもない。

最近、思う。

どうやら、今の自分の中にある、以前なら即刻書きたい衝動に直結していたに違いないような「抱えたもの」は、文章に落とし込むことでは解消できない。

文章にすることで解釈を与える…そういうことでは、今ある疑問や不思議には、落としどころが見つけられない。

「書く」ことと、精神安定&浄化…でもそれができないとき - 緋呂の異界絵師通信

 

今に至るまで、この感覚は途切れることなく、続いてきた。

意識の中でどれくらい主張しているかは、その時で違うにせよ、消えずにずっと居座っている。

 

文章を書くことで、言語化することで、自分の中に落とし込む。

むしろ、それを経ないと落とし込めないくらいだった。

 

この頃から、言語化という手段によっては汲み上げられなくなってきて。

けれど、奥底の井戸には別の水脈があるようにも、感じていて。

 

 

書や絵を描く、塑像を作る。

そういう手段も、奥底の井戸には、届かない。

 

でも、存在はわかる。

 

 

 

2年前と今、大きく違うことは、と言えば。

龍印画を皮切りに一気に流れが速まった、言霊や言葉の意匠に関わること。

ただ「言葉を書き綴る」のではない、呪術的な側面が強まった。

当時は護符を描くとか、祝詞つくるとか、「あるわけない」と思ってた。

そこには近寄りたくなかった。

始まってしまったからには、戻れない。

 

この深い古井戸から呼び水を引っ張ってくるには?

 

「ことよりのみくじ」で作る護符は、一日一枚以上は作れないことがわかった。

そして、たぶん、毎日連続で作ることも、できない。

 

古井戸から汲み上げることができれば、精度やキャパシティも上がるだろうか。

 

それも、わからない。

 

わかることは、一つ。

 

眉間にしわ寄せ、クソ真面目になりすぎてはだめだ。

適度に力を抜いて。

楽しくやること。

様々な問題は、笑い飛ばす。

 

うっかりすると私は、クソ真面目になりすぎるから。

 

 

 

2年前の記事に貼ったのと同じ画像を、貼っておく。

https://www.instagram.com/p/7jfreQJiTn/

筆ペンラクガキ#art #artwork #illustration #drawing #筆ペン #落書き #ラクガキ

 

 

 

 

★外部サイトからも読者登録できます!→

 

 


掲載画像、文章他の転載はご遠慮ください。引用の際は出展元の明記をお願いします。