「絵から全部、違う音が聴こえる」と岡山から愛知まで来た人がいた…異種交差点としての絵の存在
展示会にはるばる岡山から見に来てくれた人がいた。
彼とはFacebookで知り合った。
音楽をやってる人だった。
ヒーラーでもあった。
生きていきづらい性質を備えている人だった。
彼は、画像を通して絵から音が聴こえる、と言っていた。
だから、原画を生で見たい、と。
岡山から来てくれた彼は、一枚一枚の絵の前に、ずいぶん、長く立っていたように記憶している。
人は、いろいろな受け取り方をする感覚機能を、それぞれ、備えている。
一人として、全く同じ感覚というのはない…というくらいに違う。
彼は職業として音楽をやっていた。
だから、音と言うカタチで受け取る力が高い人だ、というのは、間違いない。
原画の前に立ったほうが画像よりも鮮明で複雑に音が聴こえる、と、彼は言った。
ネット上の画像は解像度を落としている=情報が間引きされている。
そのうえ、ノイズが乗る。
原画から聴こえる音とは全く別物、というくらいに違う絵もある…と、言っていた。
絵の鑑賞のしかたは、人それぞれでいい。
好きなやり方で見てくれればいい。
描き手の私には想像できない手段で絵と向かい合ってくれた話を聞くと。
異種感覚の交差点、という場でもあるのだな、と思うのだ。
先日の展示会でも、音楽家の方とお話しした。
音のイメージで感想を言ってくださったので、岡山の彼のことを思い出し、話をしてみた。
わかる、と、彼女はうなずいた。
その方は、曲になって聴こえるとも、おっしゃった。
絵の前で涙を流す方がよくいる、という絵がある。
正面に立つことができない…と数名の方に言われた絵もある。
その音楽家の女性が、非常にはっきり音を聴いたらしい絵は、泣いた人が今までで一番多い絵と一致した。
異種感覚同士は、お互いにその話をしない限り、そうとはわからない。
共通の、目に見えるカタチになった媒体を仲介して、全く別の世界を垣間見られる…というのは、とても貴重で面白い経験だ。
生で展示会している時でないと、なかなかそういう機会はない。
だから、売る売らないという話ではなく、絵を展示する機会はマメに作ろうと思うのだ。
「なんとか言語化してみます」と私は言ったから~「THE LISTENING」からの掘り下げ
「THE LISTENING」の話、その2。
今回は、セッション中に出た絵と創作に関わる発言のうち、掘り下げておきたいなと感じたことを中心に書く。
「THE LISTENING」の話というのは、こちら。
体感覚型の感覚を言語化するのは至難の業…なのだが。
そこらへんは、基本が聴覚型(理論、言語)ってこともあって、どうにかして試みたいという欲求が高いのである。
やってみると、以外に他の人から面白がってもらえたり、共感もあったり、反応があって、そういうのに味を占めてきてもいる。
あ…そうそう。
この「体感型」とか言っているヤツは、NLP(神経言語プログラミング)という海外から来ている心理学系のメソッドの中にある、「その人の特性が、どういうところに反応しやすいか」を分けるためのモデル。
その人のタイプに合致している表現は入ってきやすく、そうでないと入っていきにくい…というもので、けっこう重要で、応用の利きやすいモデルなので私は気に入っている。
ラベリングありきで人を語るのは好きじゃないが。
なにもないと語りにくい…というのも確かなのだな。
人は皆、全てのタイプを内包しているのだけれど、中でも強度の高い感覚というのがあって、それを軸に考える。
視覚型、聴覚型、体感覚型と大きく3分類されて、厳密にはその中に更に細分化された型がある。
私が「基本は聴覚型」と言っているのは、ほぼあらゆる場面において、記憶を掘り起こす時に最初に呼び水となるのが「音」だから。
海と言われれば、波の音。
人の顔よりも、声を覚えていることが多い。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」なんて句は、真っ先に梵鐘の響きをイメージする。
体感覚型が基礎で最も優位ならば、たぶんそこでイメージするのは柿の味や食感、香りといったものになるだろうし。
視覚型ならば、柿の画像とか夕焼け空といったヴィジュアルを想起する。
…だろう。
というモデルだ。
この話は、案外、これ以後書く事に関係してくるので、興味がある人はVAKモデルについてざっくり調べてみてから戻って来ていただくと、より面白いかも知れない。
…戻って来てね…汗
さて。
セッション中に出て来た項目
「どうやって絵を構成しているのか」
「表現すべきものを表現しきれている、と感じるか」
「私だけでは完成しない」
について、書いてみる。
分けて書くのはたぶん、無理で。
何言ってるのかわかんない系の文章になるかとは思うけれども。
言語化の試みが目的なので、人が読んでわかるかどうかは、この際どうでもよい。
(が、もしかしたら、わかるっていう人もいるかも知れないのでブログに書く)
私の場合、最も鍛えてきた感覚は、絵描きというくらいだからヴィジュアルを扱うことだ。
占いのジャンルも、数値で取るよりは絵のあるものが好き、というのからカードへ向かった。
人に何か説明する時、図を書くことも多い。
しかし、基本的に私が最も優位に働く感覚は「聴覚-音-言語・理論」であって、見た目をそれほど重視しない。
絵の傾向としても、自分が一番「そこに表現すべき対象」として捉えているのは、全体の見栄えやフォルムではなく、紙の上にどれくらい臨場感が再現できているか…ということだ。
描こうとしている対象が備えている勢いとか、効果音。
おそらく、よくいただく評価の一つ「生き生きしている」「今にも動きそう」というのは、そういうところからきていると思う。
私のイメージの中には、制止画というのは、ほぼ存在しない。
静止している何かを描くとしても、そこにはかすかな空気の流れが必ずある。
それは、結果的に、細部を省くということに、繋がる。
臨場感を出すために必要な「細部」を中心にとっていくと、度外視されてしまう領域というのが出てくる。
モノの形状の正確性などが、それに当たる。
人間の関節、さすがにそうは曲がらないよね…という形状に紙の上がなっていても、それが一瞬を切り出すために適していると判断すれば、あえて歪める…という感じ。
正しいフォルムを描きたいのではなく、一瞬の空気を留めたいのである。
一枚の絵に、連続したシチュエーションを留めたいのだ。
というか、それ以外に描くべきものがあるのか?
私には、無い。
さて、問題は。
その「連続したシチュエーション」のエッセンスが、私に送られてくる段階では、全然視覚的ではないということだ。
先日UPした九頭龍大神の絵を例にしてみると。
「九頭龍大神を描く」と決めた段階で、やってきたのは、「水圧」の感覚。
水面下深いところから爆発的速度で昇ってきたものが、表面張力をブチ破って上へ突き抜けてくる、という、感覚。
それが9つに分散して、それぞれ龍の頭になる…という、感覚。
あくまでも、映像ではなく、感覚。
そこから、今回描くべきシチュエーションは、「水面に飛び出してきて9つに散った龍頭」である、と私は判断する。
まず、絵の大枠は、そういう感じに決められる。
だいたい、この大枠が決まった段階で、画材に何を使うかという指定も来る。
描くべきシチュエーションとしてイメージされた「画面」の質感だったり、画材の香り(特に墨の場合はこれが顕著)であったり、筆跡の感覚だったり…というものを伴うため、それで判断する。
それらの情報は、頭の中に閃く…というのとは、ちょっと違う。
墨の場合は顕著、として香りに触れたけれど。
頭ではないところに、分散して届く感じなので、それを拾ってきて「絵に変換する」行程が必要になる。
たとえば、「指に当たる、木材の感触」=鉛筆だな、であったり。
表面張力を突き破る水圧は皮膚感覚だし。
濁流の轟音、というのは、耳だし。
そんな感じに、いろんな情報がいろんなところに分散してやってくる。
一度にドカンと来ることもあれば、何個口かに分かれてくる時もある。
何個口かで来る時はタイムラグがかなり出る場合もある。
そして、実際に絵の制作に入ったら、その時はその時で、次にとりかかる行程が、改めて届くこともある。
そして、終わりは、「はい、ここまで」という感じで、サクッと終了。
たまに、時間を置いてから「ここにもう一筆」ってこともあるけれど、ほとんどは、サクッと終わる。
そんな風にして、絵が組み立てられるわけだが。
私の中で「最も重要な絵のパーツ」は、実は私の中には存在していないものなのだ。
それは何かと言うと。
見てくれる人が、ご自身の中にカタチづくる「何らかのインスピレーション」
である。
私は、100%あなた次第…だと思っている。
だから私は、自分の絵の中にある意匠などをアレコレ解説することがイヤだ。
(やろうとしてもできない、というケースの方が多いのだけど)
そして、できれば画像ではなく原画を、見てほしいなとも思う。
画像にした段階で欠損する情報がたくさんあるから。
CD音源にしたら非可聴領域の音がなくなる…みたいな感じだ。
画像にしたら色が再現できないから…なども理由の一つではあるけれど。
それは、実のところ私は、あまりこだわりがなくて。
それよりも、絵に乗っている(と思われる)非可聴領域の音に似た情報が欠落することの方が大きい。
とにかく。
見てくれた人が、自分自身の中に何を感じたのか…と。
それが、最大最強のパーツなのだ。
だから、私だけでは絶対に、完成しない。
むしろ、私という描き手は、「三次元的にカタチを現す手段」として存在しているだけだ。
それを、私側の理屈で表現すると、セルフマガジンに書いた
これになる。
このセルフマガジンは、私から神への果たし状、というコンセプトなので、普段思っている強度の数倍、偉そうに書いているけど。
私の神の絵は、描き手の私と、その時の対象と、観客。
それが揃わないと完成しない。
そして、完成のカタチは、無数にある。
だから、私の絵に、私自身の思想や感情は、余分なものでしかない。
もともと、ものすごく巨大なものの、ごくごく一部分だけを拾って一枚の絵にしている。
こちらに届いた情報のうち、ほぼ9割近くは、「今回の絵では取り扱わない」とするしかないものだ。
その残り1割を、どうにかして絵に再現するわけだけど。
その「どうにかした末にできた絵」は、そもそも、要素の一部でしかない。
見た人の中で生まれる何らかのイメージなり、概念なり、感情なり…なんでもいい。
そういうものの占める比重の方が、遙かに高い。
見てくれた人の中で生まれたものによって絵が完成した、その時を10とするなら。
私の手から出て来た絵なんて、そのうちの1か2くらいのものでしかない。
私の担当しているところは、その絵の背後にある巨大なものから見たら、ほんの1%くらいの比重でしか、ないのだ。
完成させるのは、見てくれた人。
特に、私に対価を支払ってくれた人は、より大きな完成形を創れる権利を手に入れた人だ。
そして、私への対価は、必ずしも現金とは限らない。
(値切ったらダメだよ…その時点で無効)
ともかく。
他のひとたちがどういう風にして絵を組み立てているのか、私にはわからないので。
こういうのが、ヘンなのか、たいていの人がそうなのか…ってのも、知らない。
とりあえず、対象が神とかちょっとやっかいなメンドクサイものなので、イメージングのステップは私の自由に全くならないことが多い。
もちろん、どの絵の時もそう、っていうわけではなくて。
中には、大きなダウンロードは何もなく、小手先でなんとなく「まあこんな感じ?」みたいにやれちゃう時もある。
そこらへんは、経験値と慣れの問題とも言える。
あ…ダウンロードね。
別にそれは、「上から来る」というものでもない。
手の甲に沸いてくることもあれば、背中の上にドスンと落ちてくる感じの時もある。
足下から寒気みたいに這い上がってくることもあるし。
真正面から、胸骨にぶつかってくる感じのこともある。
いや、だからね。
いつ何時、どこからどうやって飛んでくるか、わからないので。
受け取るタイミングを自分で図れるようになるまでは、大変だったのだよ。
今は、基本的に受け取りスイッチを平常OFFにしている。
プッシュ型で飛んでくるLINEやメッセンジャーのような感じか、それとも自分でアクセスした時に読み出してくるメールのような感じか…の違いかな。
それでも、スイッチが無意識にONになりやすい時、っていうのもあるし、勝手に来ちゃうことも多いのだけどね。
いや~。
なんだこの記事。
すんげー理屈っぽいし何言ってるかわかんねえ感が満々なんだけど(笑)
まあいいや。
60分の「THE LISTENING」で、私が越川さんに質問したことを答えてもらっている時間が、全体の4割くらいはあったと思う。
残り6割の私の発言時間のうち、2割くらいは沈黙だったように思う。
とにかく、言語にするとこんなに、くどい。
その上、難しい。
それを、端的な単語に変換しようとすると…言葉を拾い出してこられるまでに、すごく時間がかかる。
体感覚の情報を言語に…あるいはヴィジュアルに変換する、という行程は難しい上に、効率が悪い。
残る情報はごくわずかで、それも、変質を免れない。
実に、残念。
完全に視覚優位な人であれば、こういう説明をする時にイラストを添えて図解するところだろう。
描けないわけじゃなし。
その方が人に伝わりやすいことも、わかる。
けれど結局いつも、長く文章を書くことによってどうにかしようとしているということ自体が、私が基本的には視覚型ではない証拠。
その方が、自分が気持ちいいからだ。
あくまでも、自分本位なんである。
これが、受け取る人のことを考えて…ということがしっかり出来ている人だったら、たぶん、メンドクサくても図解するのだろう。
でも、今そう書いてみて、「いや、図解しちゃったら、この試みの意味ねえよ」って思ってしまったので。
私は、自分本位のままを投げて、終わることにする。
「ぼくを使えることがあるんやったら、使ってもらったら嬉しいんで」と彼は言った…「THE LISTENING」がサンプリング場と化した60分
彼、越川(えちかわ)紀宏、通称「えっちー」
「くるくるセラピー」という、なにやら怪しげなセッションをやっている。
体感覚優位のセラピスト。
以前受けて、記事を書いたが、くるくるセラピーのくの字も記事中に登場していなかった…。
レポ記事失格である…失礼………
今回受けた「THE LISTENING」のコンセプトは、
このセッションは30分〜40分、誘導もなく余計な質問もなく、ただ言葉を紡いでいただくセッションです。
THE LISTENING 〜 あなたのお話しひたすら聞きます - えっちー雜談家になるってよ
だったのだが。
丸っと無視して、私の興味にひたすら、つきあってもらう「サンプリング」の60分と化したのであった。
最初からそんなつもりだったわけではない。
当初は、セッションが始まれば、その時口から出てくることを話して聞いてもらえばいいや、と思っていた。
おおまかに枠組もある、と提示されたので、どうせすぐに逸脱するだろう前提で、「仕事とか、今後の野望とか」みたいなところから話を始めよう…と、した。
はずだったのだが。
そもそも、そんなところに触れる以前に、つい、聞いてしまったのだ。
「見えないものとどう関わっているか、立ち位置は?」
この場合の「見えないもの」というのは、別にスーパーナチュラルな話とかではなくて、神だ霊だという話ではなくて。
感情であるとか、脳内物質や電気信号といった、「計測はできるが視覚的には見えない」ものも丸っと含めての「見えないもの」ということ。
越川さんは、質問を投げかけた時の体の反応から、無意識下で絡まっている問題を探していくセラピーのプロ。
だから、彼の「見えないもの」への感覚というものを、聞いてみたくなったのだ。
体をめぐる信号を拾う、という、見えないものを扱うプロだから。
とどのつまり。
私にとって、他の人達がどのようにして、不可視領域にアプローチしているのか(あるいは受け止めているのか)といったことは、大いなる興味の対象で。
本当に、これは人によって全く違うものなので、興味が尽きないのだ。
全く違うけれど、サンプルが多くなってくると、ある程度の傾向というか、分類とかもできるようになってくる。
それがまた、面白いのだ。
ということで。
私がひたすら言葉を紡ぎ出し、それをひたすら聞いてもらう…というセッションが、ほぼ最初の段階から、サンプリング時間になった。
面白かった。
越川さんのように、かなり強度の高い体感覚優位の人と、こういう話をじっくりする機会というのは、なかなか、ない。
私の周囲は、自分が絵描きだったりするせいもあるかもだけど、ここまでの体感覚優位な人は少ない。
私は基本が聴覚優位(言語型)+体感覚優位だ。
状況によってどちらに比重が傾くかが変わってくる。
見えない世界系の話や、非常にこみいった思考を必要とするような話になると、ほぼ体感覚優位になる。
言葉が出てくるまでのタイムラグがかなりあるので、根気よくつきあってくれる人じゃないと、面倒くさがられるのだ。
こうやってブログの文章を書いている時は、圧倒的に聴覚型に傾くのだけど。
絵描きだからって視覚優位とは限らないんだよ。
(視覚優位の面が出てくる時も、あるけどね)
聴覚型、体感覚型…っていうのがナンだろうという方は、「VAKモデル」とかで検索してみると面白いと思う。
越川さんに取材した「サンプル」はどんなものだったのか…というのを、ここに書くのは難しい。
がんばって言語化してみる、と言ったものの。
メモを見ながら、すでに諦めモードに入っている。
ただ、今日、この時になって始めて、口から出して人に言ってみたことがいくつかある。
せっかくなので、話したことの項目だけでも、ここにメモして残しておく。
私が話したことと、越川さんがおっしゃったことのうち印象的なものも含めて並記。
a)人が不可視領域を外側へ向けて表現する場合、「音」か「絵(画)」かの大きな枠組に分かれる。
b)どうやら、それは先天的にある程度決まっているらしい。
c)「音」の中に、私の場合は、言葉や文字も含まれる
d)「絵(画)」の中には、化学式(亀の子)や記号といったものも含まれる
(今思ったが、このあたりはもしかしたら、「代数」と「幾何」の分類がベースになってるのかも知れない)
e)己の中にある様式に合わない沿わない概念を判別する分かれ目になるのは、多くの人にとって「違和感」である
f)大きな概念→小さな概念への細分化 と 小さな概念→大きな概念への統合
g)大きすぎ、包含するものが多すぎる枠組と、それを明細に分けた時の枠組
h)絵の中に自分の思いや意図というものを乗せる、ということは「余分なもの」であるので、自分の感情や思想を絵として表現する手段とは、やっていることが違う。
i)過去の歴史から見ても、芸術には表現者の思想や感情を乗せて送り出すものである、という「枠組」があるが、それとは相容れない。
j)アウトプットされたものと、奥の方にある思いや意図が乖離していると、見た時にとても気持ちが悪い感じになる。
で…そんな話を続けているうちに、なんだか知らないけれど、すっごく、暑くなってきて。
汗かきながらのSkypeになった。
それから。
意図と思想がどうこう、という話の辺りから、ふわーっと、今まで見たことのない妙なヴィジョンが出て来た。
こういうの。
薄いレゴブロックみたいなもので組み立てられた、球体。
ジグソーパズルではなく、ブロックが近い。
一つずつのピースは形状も大きさも不揃いで、どうやって組み立てられているのか不明なモノ。
中は、おそらく空洞と思われる。
継ぎ目に時々スパークみたいな光線が走っていくのがチラついている。
後から、これに似たものを前に見たことがあるな…と思い出してみたが。
たぶん、「劇場版 銀河鉄道999」に出て来た、機械化母星メーテルが崩壊していくときの、パーツとパーツが「手を離していく」ことでバラバラになっていくあの星のシルエットみたいなのが、近かったように思う。
要は、無数のパーツが組み合わさってできている球体。
って、長々書いておいてナンだけれど、これが一体何なのか、皆目わからない。
が、これを一度分解してバラバラにしたら、何が出てくるか…というか、どういうことになるのか、というのは、なんか面白そうな感じ。
とりあえず、この球のイメージはセッションが終わるまでずっと、消えないでそこにあった。
…と。
まあ、セッションのコンセプトとは大きく離れた60分だったのだけど。
でもまあ、最後に「いや、ぼくを使えることがあるんやったら、使ってもらったら嬉しいんで」と言ってもらったので、ヨシ。
どうせ何でもレアケースになっちゃう人間だしな。
私は大いに満足だったので、ヨシ。
前回のセラピー後の記事はこちら
ここに書いているアンカリング実験は、ほどなくして放棄しました。
理由は…どうにも、うまくいかなかったから。
何度か試みるうちに、自分の細胞が「いらんことすんな」と腹を立ててる感が出て来たのでやめました。
…まあ、よく考えたら。
私の場合、体細胞っていうのも一種のセンサーとして使っているところがあるので。
確かに、余計なものを入れてくるな、という反応が出るのは、わからんではない。
わかっとらんのは、この妙ちきりんなことばかり考える「頭」だけ…なのかもね。
そして、前回の記事を今読み返して、興味深かったのは。
この時は、「細かい概念」を、まるめて大きな概念に統合していく、という話をしてもらっている。
丸めて、もう少しチャンクアップすることによって、「元のテーマ」を包含しつつ、無理矢理感が全くない言い換えとなった。
言霊を上手に使う&望みの状態に切り替えるスイッチ…の話 - 緋呂の異界絵師通信
今日と逆だ。
今日は、越川さんが、「細かい概念で分類するほうが楽」という話をしてくれて、私が「音と絵、という大きすぎる分類」の話をしている。
もともと私は、「細部から全体を構築する」派だ。
シュトーレンの写真を指さして「コレ」と言った時、多くの人は「シュトーレン」そのものを指していると思うだろうが、私は時として「その中に練り込まれているオレンジピールの一片」を指しているのだ、という…ってな話を昔書いたことがあるが。
細部を把握したいのだ。
そして、全体像も…できる限り全体に近いところ、でもいいが…それも、見たいのだ。
ミクロもマクロも、両方。
今日のセッションでは、たまたま、私の感覚がマクロに寄っていたので、やたらと分類のサイズが大きかったのだが。
もともとは、とことん細かく分化して吟味したい派。
…ああ。
もしかして、上の、組み立てられてる球体は、そのモデルなのかも。
トランスフォーマー並みに、なんか別のカタチに変形したりして。
と、より一層、わけがわからないところに入っていきそうなので。
ここらで、終わる。
いやいや。
こんなわけのわからない話に付き合ってくださった越川さんに、感謝。