願いとは、人の基本システム
願い
というものについて、考えてみた。
願いによって人は生かされ、活かされる。
そして、願いによって、死にもする。
神に願う
その行為は、太古の昔から人間の中に組み入れられていた、エネルギー変換システムだと思う。
動力は、欲。
画家になれなかった神龍絵描きのお話
毎日、好き勝手やって楽しく、グタグタしながら過ごしています。
家にいても家事はやらない、不良主婦。
家事はやらないけれど、作るのも毎日できない、不良絵描き。
神様つきあいやってるけどお祀りもしない、不届きな神絵描き。
(うちでは、神棚のお手入れはダンナさん担当。私がやるよりも神には喜ばれているに違いない…なんせ私は気がつかないヤツだから)
いやあ、なんて楽しい人生だ。
こんな好き勝手やらせてもらえて、恵まれすぎててヤバイよ。
でも、気をつけないと。
ハングリーさが、薄れる………かも知れないから。
今のところ、あんまり、その兆候はないように思うけれどね。
グタグタしていても、何も作ってない日がいっぱいあっても、作るためのインスピレーションに繋がることしか、インプットしてないから。
それ以外のことは、ほとんど無関心です。
最近、やっと、自覚してきました。
私は、どれほどグタグタして何もやらない日々を送ったとしても、この「絵師」という世界観から離れて世界を見る、ということは、できないのだと…ね。
何をやってても、何を聞いても、見ても、考えても、感じても。
全部、絵描きワールドの中で処理します。
私は「絵師」という肩書きを名乗ってます。
画家では、ありません。
絵師を名乗っている理由は、過去に書いているので、そちらをご参考いただくとして。
「画家ではありません」と、言い切っていますが。
厳密に言うと、私は「画家になれなかった絵師」だと思います。
この話をお読みいただく前に、こちらをご一読ください。
大好きな、広告漫画家の百万さんブログ記事。
画家になれなかった神龍絵描き…に読めてしまった。ある種、普遍的な思いなんだろうか…性格も人間のタイプも感性も似ているとは思えないのに、表現者枠は同じだからか? →漫画家になれなかった広告漫画家 https://t.co/cKgN2oUuWC @hyakumangaさんから
— 異界絵師 緋呂@あかり玉制作中 (@HIRO_eshi) 2016年6月22日
読みましたか?
読んでから戻って来てくださいね。
挫折、という経験も、人それぞれ、その深さや大きさ、強さは違うものです。
ある人の人生最大の挫折経験とほとんど同じ状況を、別の人が経験したとしても、あっけなく「ま、そんなもんだ」と受け流してしまえる…なんてね。
よくあることです。
私は、どっちかというと、後者。
今まで、すごくズッシリと記憶に刻んできた挫折の経験って、ありません。
どれもこれも、「ま、世の中そんなもんだ」って、あきらめつけてきた。
できないことが多すぎて。
むしろ、できることを数えた方がよっぽど早い…という。
そんでもって。
私がこれまで「挫折経験」として認識していることは、ほぼ全てが、絵描きに関わること。
幼稚園から始まって、今に至るまで。
絵をやめていたし、もう戻ることはないだろうと本気で思っていた14年間ですらも、そうだった。
「やめたこと」と本気で考えていたのに、その世界で挫折感を味わうって(笑)
今となっちゃ、笑い話としか思えませんが。
画家には、なれなかったのですよ。
自分の画風を追求する…とか。
なにがしかの思想を投影し、世に問う…とか。
なんかね、そういう。
「活動」っていうかね。
日曜画家という言い方がありますが。
私は、それにすら、なれなかった。
ただ一つ、美術館の常設展示の仲間入りをしたい…みたいなことだけは、学生の頃からずっと、思い描いたことがなかったです。
関心なかった、と言ってもいいかな。
高名なコンクールとかに入賞する…なんてことも、全然興味なかったですね。
そこらへんは、若い時期からコネと金の関係とかを直に見聞きしちゃって興醒めしちゃってた、ってのは、あるかもね。
他の絵描きさんはどうか知らないけれど、私の中では「画家」と「絵師」は、明確に線引きがあります。
違う生き物だと言ってもいいくらい。
交わらない、ということではなくて。
領域が違う…という感覚。
「画」と「絵」にも、なんか違いがある。
ここは、うまく言語化できないけど。
そして、昔は私も、「画家」で在りたいと思っていたのです。
遠い遠い昔の話です。
画家というのは、私の道じゃないな…と、わかってしまって。
それと同じくらいか、それ以上かもという心血注いでいたことは小説でしたが、それも、主軸でやっていくようなことではない、と、早い段階でわかった。
一般的に言う「無理だと諦めた」というようなことではありません。
私の「書きたい熱」は、ある一点にだけ特化された熱であって、「小説を書くこと」という行為に向けられたものではなかった…ということです。
自分がどうしても書かずにはいられなかった(そうすることで、精神のバランスをとっていた)ものを書き切った時、はっきりわかった。
画と絵の違いが説明できないと、なんか、この感覚も説明できない…。
言語化されてないことを書こうとしてるから、問題があるんだけど…。
私が絵の道に戻ってきた時。
私は、どうして自分が突然、好きでもない天使なんか描き始めることになったのか、よくわからなくて。
その世界と自分自身はとても遠く離れていたので、その乖離感には本当に、悶々としたものです。
けれど、遠からず日本の神様がやってくる…というかすでに来てて、とっとと描けるようになれと急かしてるのも、わかってた。
なんせ、一番最初に見えてたのが、素戔嗚尊ですから。
ああ、この世界は、私が馴染んできた世界と近いな、って、感じてた。
天使には全然ない、陰の気も充ち満ちている世界観だから。
陰の気というのは、私の生来持っている要素の中で、かなり強い性質です。
見かけや印象が明るいとか暗いとかいうのとは、少し、違います。
でも、私は、画家という括りでは見いだせなかった自分の絵の道を、和の神の世界で再発見したのです。
陰の気もたっぷり満ちた神の世界へ、己の道が繋がった…と認識した時に、画家である必要すら、なくなった。
まあ、そうは言っても、今のように居直れるまでは、和の神の世界に入ってきても悶々としていたのですけどね。
悩むのが好きなんで(笑)
人生上のことで悩むことって、ホントに、ないんだけど。
だからかな、変なことで悩むのが好きなのね。
龍を描き始めたのは、和の神を描くようになってから更に、時間が経ってからのこと。
そして、龍を描き始めてから、より、絵師道以外に道が繋がってないことが、確固として感じられるようになってきた。
龍の絵も、やっぱり、画家として描いてないと感じてる。
何だろうね、この線引き。
言語化できる時が来るんだろうか。
単語として表現する時には、龍絵というより龍画と表現する方が収まりがよいので、龍画って表記しているけれども。
画と絵は、違うんだよねえ…。
再び、百万さんの記事から引用。
私がやりたいことは、一生なんらかの形で漫画を描き続けること。
『漫画家』とか『広告漫画家』とか、そういう括りさえ超えて、いつかもっと新しいことをやるかもしれない。
私、思うんだけどね。
今、世界はどんどん、変わっていってる。
職業の、役割の境界線。
構造そのもの。
仕組み。
あらゆる価値観。
そういったものが、どんどん、変わっていってる。
いずれ、今ある括りのほとんどは、変質するか消滅すると思う。
今はまだ、いろんなことをやる人を「マルチタレント」とか言うけれど。
近いうちに、誰でもがそうなると思う。
それも、無理にではなく、自然にそうなると思う。
一握りの人のための、一握りの人が請け負う何か、というのではなくなる。
ただし、それは、歓迎すべきことばかりではない。
新たな挫折の機会が待ち構えている…のかも知れない。
「なれなかった」「手に入れられなかった」この感覚は、大事なものだと思う。
それがあるから、原点に還れる。
そのマイナスを埋めるために違うものを欲するという構造は、よくないって言うのが今の世の流れみたいだけど。
「マイナスをなかったことにする」と、問題が起こりやすいっていうだけで。
「マイナスがあるからわかること」は、大事なこと。
まあね。
絵を描いて暮らしている人の中で、こんなこと思うのは数少ないのかも知れないし。
逆に、わざわざ書くほどのことじゃない、普通すぎる話かも知れない。
そんなのは、どうだってよくて。
百万さんのように、それほど長くない文章で、きちんと言いたいことをまとめられる能力も私にはない…ということを再認識して笑えてきてる目下の状況です(笑)
ま、いいや。
書きたかったから書いた、っていうだけなんで(笑)
今言語化できてないことが、できるようになった時。
「アホなこと書いてたな自分」って笑うネタにくらいは、なるでしょう。
そんな、しょーもないとりとめのない話をしに、来て下さい。
7/21~26に、名古屋市北区の「箱の中のお店」にて合同展開催です。
25日は不在です。
それ以外の日は在廊します。
一人じゃ大したことできないけれど、必ず1以上であることが条件だ…と忘れてないか?
人は、一人の力でできることなんて、知れている。
本当に、そう思うし、実感もしてきた。
たぶん、これからもっと、今までとは違った場面で、さらにしみじみと感じるようになるのだろうと思う。
ただし。
その「一人じゃ大したことはできない」は、前提として
一人でも、それなりのことができる
ってことが、必須だ。
0×0=0
だし
100×0=0
なんだ。
誰かが0なら、組んだ仲間の結果も0になってしまうのだ。
何かを人とやる、ということは、一人でできる以上の結果を導き出さねば、意味が無い。
つまり、一人が1のままでも、意味が無いのだ。
最低でも、1以上。
小数点以下のケタがすごく大きかったとしても、1以上。
そうでないと、人とかけ算しても、その人の結果を削いでしまうことになる。
それでいいのか?
ダメだろう。
なんのために、組むんだかわからない。
相手の結果を削いでしまうくらいなら、組まない方が良い。
けれど、世の中、えてして「削いでしまうことが、わからない」人がいて。
そういう人ほど、人との掛け合わせ効果への期待が大きくて。
結果として、誰のためにもならない「コラボ」が、多発している。
自分がまず、1以上のものを相手に差し出してからだ、誰かと組むのは。
人のパイを狙って組むのは、お門違いもいいところ。
組もうとしている相手が、1未満の人でないかどうか。
見極める目を持とう。
そして、自分が相手にとって1未満でしかないのか否か。
自分のことも、厳正に見極める基準を、自分の中に持とう。
それから。
持っているものは1以上でも、在り方がマイナス…という人が、一番やっかい。
そういう人は、ちょっと見ただけでは、わからない。
気をつけるポイントは、その人が無意識に使う「口癖」にある。
なんだかんだ、マイナス発言に繋げる接続詞を多発しないか?
その口癖は、その人自身の結果をマイナスに導きもするし、組んだ相手の結果をも、マイナスに導く。
「でも」「だって」「どうせ」は、代表的によく言われる口癖。
動かなくてもいいための理屈をひねり出すばかりの口癖だから、それを多発する人とは組まない方がよい。
「結局……だから」も、その一つ。
結果に向かうために力を貯めようとしているところに、それらを浴びせかけ。
一見、冷静で現状を見ているように見えるけれど、その実、向上を阻む。
予測の範囲内に納まるように…つまり、その人の器の中に楽に納まるように。
つまり、器以下の大きさにまで。
あらゆる着地点を、引き下ろそうとする。
「そんなに甘くない」「上には上がいる」
そういった言葉も、その仲間。
身の丈がどれくらいかなんて。
ぶつけてみなきゃわからない、ってことも、多いのだ。
想像で測っているだけなんだから。
実測したら、意外にそうでもない、ってことは、たくさんある。
逆に、思ってたよりも実測値が高くて、予想を超えてできなかった、ってことも、あるさ。
そういう痛さを味わう前に、痛くないように飛ぶのをやめる…ってのが、マイナスに繋げる口癖の人達の常套手段だ。
賢いように見えるだけの、賢さとは無縁の人達。
彼らのやっかいなところは、結果が予測を超えて良いものになった時ですら、それを下げさせようとすることだ。
彼らにとって脅威なのは「振れ幅が大きいこと」であって、それはマイナスでもプラスでも同じこと。
変化することが恐ろしいのだから。
遙かに良い結果が出ても、そこに冷や水を浴びせて消火にかかる。
そんな人と同じ船に乗らない、乗せない。
途中で気づいたら、毅然と下りてもらう。
あるいは、自分から下りる。
その厳しさや潔さは、必要だと思う。